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Blog – お知らせ・雑感など

25年前の伝言

言葉の力に鼓舞され、学生時代に戻ったような気分になった。

1984年5月から6月にかけてJ・ボイスが来日した時の8日間の記録ビデオ(水戸芸術館・”Beuys in Japan”)を見てのこと。編集されているとはいえ、どの場面でも彼は真剣な表情で何かに憑かれたように語り続けていた。時には般若の面相も思わせた。断片的なフレーズからでも、常に本質的なことを言っていると思わせる切迫感が画面から伝わる。

伝説化していた彼が初来日した当時、私は結婚した直後で何かとせわしかった。「ついに来たか」と思いつつ、様々なイベントには行けず、西武美術館での展覧会を見ただけ。興味はもちろんあったが、巷でよく評されていたように、彼の年来の主張と矛盾するかように、なぜ西武の資本でホイホイと展覧会などしに来たのかと、私も少々皮肉混じりに日本での彼の情報に接していたのを思い出す。

しかし、今回のビデオの中の彼の語りをトータルで聞いて、ようやく腑に落ちた。彼はたった8日間の中で実にエネルギッシュに動いていたのだ。常に目の前にいる人と真剣に対話するために。そして彼が語った来日の経緯や活動のあり方は、今の時点で聞けば至極正当だったといえる。彼は皮相な見方で批判(あるいはやたらに賞賛)していた日本人よりはるかに大人だった。

ようやく日本人の時代意識が彼に追いついてきたのだろうか? 当時はまだアーティストの多くが無意識のうちに硬直的なイデオロギー対立や個人的美意識の拡張の範囲の中に取り込まれていたと言わざるを得ない。たとえ、そんなことはないと突っ張っても、やはりそうだったのだ。彼の主張を頭で理解できても、切実なものとして受け止められた日本の美術関係者は数少なかった。
日常、非日常、生活、社会、資本主義、価値観、自由、想像力、変革、そして芸術…、様々な言葉が次々と解き放たれ、一人一人の人間のもつ創造力があるべき社会(という彫刻)を生み出していく。その人間はみな芸術家である、その人間の自由こそが真の資本なのだ、という概念へと集約していく。学生時代に、断片的な情報で向き合った思考回路が蘇る。そして、自覚的にも無自覚的にも彼の精神的影響を受けていたことにあらためて気づく。

このビデオ群では、当たり前のことだが、字幕翻訳で彼の表情や仕草と同時に内容を把握できたのが新鮮だった。ラングとしての言語でなく、パロール(発話)の力が伝わってきた。(日本流で言えば言霊の力か。)活字の言葉では伝わりきらない息づかいやエネルギーの響き。アクションの力ともいえよう。’60年代のデュッセルドルフのアカデミーでもこのように語っていたのだろうな。

これらを単なる理想論、ユートピア思考というなかれ。仮に、彼の理想通りにはこれまで世の中が動いてこなかった、あるいはこれからそうならなくても、21世紀の今、彼の伝えようとしていたメッセージ(問いかけ)のリアリティーは色あせることはない。いや、もっと更なるリアリティーを伴って再評価されるだろう。
彼は、切実な表情をしながら「私には時間がない」と言っていた。古い友人や業界の人たちと世間話しするような時間はない、と。あの切迫感はここからだったか。そう、この僅か1年半後に彼はこの世を去った。

忘れかけた25年前の大切な伝言を聞いている感じがした。それは当時を知る私だけでなく、彼を名前でしか知らない若い人たちにとってもそうだったかもしれない。この奇跡的な企画(ビデオの所在を探すのに大変だったらしい)を実現させた学芸員の方の努力に感謝したい。

(旧サイトの「活動記録」より一部抜粋して転載)

江戸の粋・明治の技

三井記念美術館で開催中の柴田是真(しばたぜしん)の展覧会のキャッチコピーだ。安村敏信さん(板橋区立美術館長でこの展覧会の監修もしている)から頂いたチケットで見てきた。こういう事がないと自ら出向くことは多分なかったかもしれない。

漆の技法の難しさはある程度理解はしていたつもりだが、安村さんの解説文を読みつつ、老眼でおぼつかない眼をじっと凝らして観察し、ようやくその超絶技巧の凄さがわかってきた。中でも漆絵の傑作の多くが70歳代以降のものなのに驚く。そして、あれだけの数をまとめて見られたことで、彼の多芸多才ぶりと徹底した意気地が伝わってくる。

あのような「技」に対する執着心は、日本人の身体的記憶の深くに刷り込まれていることが大いにあると思う。それは中小企業などの「モノ作り」の現場でも生き続けている。私の若い頃の制作意識では、あのような「技」だけにのめり込みがちな日本的気質を嫌った(自分の中にもそれがあるがゆえに)ものだが、最近は、純粋な眼に成りきって「モノ」と一体化してしまえるフェティッシュなその感性に対し、それなりに許容できる範囲も広くはなった。まあ、あくまでも鑑賞者としてだが…。

彼の生きた時代は幕末から明治にかけて。文明開化の過程で西洋から『芸術』を移入し、様々な軋轢や葛藤が生じたたこの時代に興味はつきない。それは、西周(にしあまね)が、“Art”や“Kunst”という語に対し『美術』という訳語を生み出し、近代の表現世界に日本人が足を踏み入れた時代だ。
とはいえ生涯の三分の二は江戸時代に掛かっている。同時代人の有名どころでは国芳、暁斎、芳年らがいるが、長生きした北斎ともかなりの年月が重なっている。そして高橋由一や生人形の松本喜三郎などとも時代を共有している。今の私たちが、近代人としての芸術家という一くくりの概念で当たり前にとらえてしまってはいけない人物たちだ。

彼は、もちろんその中でも職人気質(かたぎ)の最たる人物なのだが、逆に、単にそう言い切ることもできまい。「技」だけで語れない複雑な人格の持ち主だったように感じた。それは河鍋暁斎などにも感じる。特に、明治以降、社会的に自らのよって立つ基盤が根底からぐらつきながらも、その中で、個人的に確固たる矜持と技でもって生き抜いた強靭な精神力の持ち主だったであろうことは間違いない。それを時に、「粋」という言葉で言い表せるのかもしれないが、九鬼周造的な「いき」だけでは括(くく)れぬもっとドロドロした何かがある。

近代を相対化できるようになった今の時代(ポストモダンのブームも遥かに過ぎた)だからこそ、その何かを再発見し、うすうす理解できるようになってきたのだと思う。この日の観客の多さと熱心さは、その現れの一つのような気がした。

(旧サイトの「活動記録」より一部抜粋して転載)

On the Planet

2010年。明けましておめでとうございます。

2001年の同時多発テロに始まり、グローバリゼーションの荒波に揉まれた「ゼロ年代」。私たちは次の「’10年代」をどう過ごすことになるのだろう?
今から思えば、私たちの世界の構造的変化は、’90年代半ばあたりから本格化していたことがおおよそ把握できる。なぜかの分析はここではしないけれど、多分、同様に感じ取られる方々もおられるのではないだろうか。

さて、この写真。初日の出ではない。
昨年末、作品資材を倉庫に運び入れた帰途、東北自動車道の下り線で撮ったもの。南西方向の低空を滑るようにゆっくり沈んでいく夕日を、進行方向に向って走行しながら1時間以上視界にとらえ続けた。時折、冬の柔らかい陽射しが路面を正面から照らし出す。光の中に地平線がとけ込む。自らも光に包まれる。オレンジ色の光の帯の上を滑走しているようだ。

“On the Planet”。こんなフレーズが脳裏に浮かんだ。一惑星上で活動するささやかな生命体の原初的知覚のようなものが発動する。あるいは宇宙飛行士が覚醒する感覚とも言えるだろうか。この感じ、このような偶発的な体験によって繰り返し私の中で生じる。最近の私の作品を見ている方は、なんとなくお分かりになっていただけるかも知れない。

こんなこともあり、年が明けて2001年と2010年を頭の中で併置したら、アーサー・C・クラークを思い起こした。もちろん彼のSF小説(と映画)からの連想だ。そして初期の傑作『地球幼年期の終わり』で驚かされた宇宙観と人間観も蘇る。
2001年を迎えた時もそうだったが、2010年なんて中学時代にアポロの月面着陸計画を熱狂的に追いかけていた身にとっては、地続きの未来のようでありながら、実は茫洋とした遠いSF的未来像として遥か彼方に感じていた。同時に、多くの人々が宇宙に進出しているだろうとも楽観視していた。だって、ライト兄弟が初飛行してから、人類が当たり前のように地球上を旅客機で移動できるようになるまでのタイムスパンの短さを思い起こせば、そうであっても不思議ではなかった。
しかし、人類が月面に降りてから40年以上も経ってしまった。思ったより現実は早く進行していない。「かつての未来」にたどり着いた今でも、まだほとんどの人々がこの惑星の重力圏の元にある。若田さんや、先日長期滞在で宇宙ステーションに旅立った野口さんのような人はいまのところ特別だ。

片や、この10年間で、かつて夢のように思えた事態も現実的に進行してきている。インターネットによるコミュニケーションの飛躍的拡大など、40年前から見れば、SF的世界が実現化されていると言えるだろう。地球そのものが脳のようにネットワークでくまなくリンクされたのだから。
そして、地球温暖化問題。世界大戦や核問題などとは異なる次元で、全人類が自らの生存をかけた会議を開き多くの人々が関心を払うなんて、あらためて振り返るとすごいSF的展開ではないか。ハリウッド映画ではなく現実なのだ。

ところが、先月の”COP15″では、期待された1997年の京都議定書以来の国際的合意はできなかった。私たちホモ・サピエンスが、今後もこの惑星の住人として存続させてもらうに相応しい想像力と行動力を、未だ持ち合わせていないことを露呈した。
当分、私たちの存在は地球という重力(とその恩寵も含む)を抜きには語れない。その作用の内で太古の時代から変わらぬ「生老病死」を繰り返すのだろう。

(旧サイトの「活動記録」より一部抜粋して転載)

写真が幸福だった時代

20世紀を通じて独自の存在を保ってきた「写真」というメディアは、絵画や彫刻といった従来のハイ・アートとしての芸術形式の側に仲間入りしたといえるだろう。先週、東京都写真美術館でのS・サルガドと、木村伊兵衛とアンリ・カルティエ=ブレッソンの写真群を見て、こんな思いがよぎった。まあ、既に当たり前のことだが

なぜあらためてそんなことを感じたかというと、木村伊兵衛とブレッソンの珍しいコンタクトシート(ベタ焼きプリント)を見た時のこと…。
コンタクトシートは通(つう)の人が見ると興味深い。注意深く観察すると、写真家の現場の息づかいや感情の起伏の推移が感じられる。それはルネサンス絵画の技法や隠された主題を読み解きながら見るのとほとんど同じ感覚なのだ。もしくは骨董を鑑定するような態度に近い。そしてシートにマークされチョイスされた1枚のプリント写真は、単なる現実の再現や報道的客観的事実ではなく、写真家によって再構成されたリアリティーが内在されるという訳だ。

ブレッソンは有名な『決定的瞬間』で次のようにいう。

「自分自身」を発見することは、我々を形づくるとともに我々が影響を与える「外部の世界」の発見と同時に起こるのだと思われる。バランスはふたつの世界で打ち立てられなければならない。ひとつは我々の心の内部の世界、もうひとつは我々の外側に広がる世界である。その絶え間ない相互的プロセスの結果として、ふたつの世界はひとつの世界を形成する。我々が伝達すべきなのはまさにこの世界なのである。

決定的瞬間』とは単なる客観的事実の切り取りではなく、写真家としての一人の人間の内面世界と、外界の世界が共鳴し合う瞬間のことを指すのだろう。そこで限りある生を生きる人間がシャッターを切る。単なる事実としての瞬間が、写真家の意思の力によって大きな時間の流れへ矢を射るように解き放たれる。瞬間が永遠と切り結ばれる。

なんと真っ当な芸術的営為だろう。
なるほど、サルガドの写真はバロック絵画を彷彿とさせるかのようにダイナミックな構成だし、木村伊兵衛のそれは、彼が撮った鏑木清方のような肩の力が抜けた淡白な構成なき構成だ。写真が自ずと近代芸術に仲間入りする過程を歩んだ幸福な時代とともにある紙焼きの写真…。

21世紀の最初のディケード(10年)が過ぎつつある現在、既に”情報のデジタル化”は、私たちの第二の皮膚のようにぴったり付着した。そこでは写真は、”情報の単なる一つのかたち”に過ぎなくなった。無数の人々によって携帯カメラで撮影され、あるいは街中の無人カメラが時々犯罪のニュースとともに顕わにされる。それらは、無数で匿名の眼差しが無秩序に生産する単なる一コマの静止画、断片でしかない。

人間の存在自体もそのような写真の変遷とともに変化を余儀なくされようとしている。「ふたつの世界がひとつの世界を形成する」ことは、今を生きる写真家にはひどく困難なのである。かつてのようなバランスでは。

(旧サイトの「活動記録」より一部抜粋して転載)

発想トレーニング

美大受験生40人程を相手に、「発想トレーニング」と称したレクチャーとワークショップをする。
この手のレクチャー、何となくサラリーマン向け「自己啓発セミナー」のような、少々いかがわしい匂いがしないでもない。が、いたって実質的で、表現者を目指す若い人たちに向けてコンパクトにまとめられた内容。

実は、美術教育の中でほとんど真空地帯になっている領域でもある。児童教育はともかく、高校生以降は、「発想の大事さ」つまりオリジナリティーや視点のユニークさなどは取りあげられるものの、制作された作品の結果として語られることが多くなりがちだ。そう、ほとんど個人的体験の中で閉じたまま、曖昧な状態で手つかずの状況なのだ。そしてどうしても教育しやすい技術的修練(もちろんこれは大事だけれど)に収斂しがちになる。あるいは逆に、「もっと自由に」とか「ユニークでいいね」などとあまり根拠のない褒め言葉でまとめられてしまう。

それらをなんとか実際の制作に即して、「発想」が生じ具体化されるまでをプロセスの中できちんと概念的に位置づけること。そしてそれが結果的に方法論や様式といかに密着しているかを体で知る必要がある。特に、制作・表現する側を目指す学生にとっては。
各人独自の方法を見出すのはその後ではないか? 高等教育においては、ある種の規範を知った上で獲得される自由さやユニークさが尊重されるのが望ましい。ちょっと偉そうな物言いだが‥。

十数ページの冊子を準備し、自分の体験や各種の方法論をまとめ、彼ら彼女らが今までほとんど経験してこなかった「発想」の現場をわかりやすく説明、楽しみながらトレーニングしてもらった6時間。感想を聞くと、やはり今までほとんど聞いたりやったことのない内容・アプローチだったので、全般的に好評だった様子。

(旧サイトの「活動記録」より一部抜粋して転載)

イランの友へ

「ふーっ、暑苦しい!」
彼女は家に戻るなり、私の目の前で頭からチャドル(スカーフ)を取り去りソファーに投げつけた。

印象的な光景だった。少なくとも、テヘランに住む都市住民の少なからぬ人々はイスラム法の過剰な抑圧に辟易しているように見えた。5年前、私がテヘランで出会った美術関係者は、特に仕事柄のせいもあろうが、現状認識も思想も近代化された民主的な知識人といえる人たちだった。アーティストとして優れた人たちもいた。ペルシャ文化の深みと西欧近代文明に対するシニカルな視点を両方備えながら、尊敬すべき仕事を為している人たちが確かにそこにいた。
彼ら彼女らは、今どうしているだろう? 抗議デモに参加しているのだろうか?

欧米人、特にフランス人はイランに対する敵対心を意外なほどむき出しにする人がいる。丁度、日本人の多くが北朝鮮を批判するのと対照的に彼らはイランを批判する。(逆に日本人はイランを、彼らは北朝鮮をそれほど忌み嫌っていないのではないか? まあ、それぞれ情報の量や濃度が違うし、イラン人は日本人に美しき誤解に基づいた友好の念を抱いていることもあるしね。)どちらにせよ、石油利権や核問題、その他様々な歴史的パワーポリティクスの狭間で、イランという国家は国際的に際どいポジョションをとっていることは確かだ。

欧米各国のメディアがこぞって報道するほど、現在の改革派勢力が本当に多数を占めているかどうかはわからない。でも、都市住民の多くが心の中でアメリカの外圧を密かに望んでいたことは私にも感じられた。そう言えば、禁止されているビールもアンダーグラウンドで手に入ったな。(ロシア経由の密輸らしい)巷間、イメージされるほど日常生活が弾圧されている感じはしなかった。少なくとも今の北朝鮮より人々の言論は風通しが悪くないのではないか。今だって、これだけ情報が漏れ出てきているし。

今後どうなるだろうか?
私としてはイデオロギーや宗教観、政治理念などとは異なった次元の、もっと素朴な所で一人の人間として知人の様子と動向を心配しつつ、当面見守っていくほかないだろうと感じている。アートに関わる表現者同士の精神的な連帯感を礎として。(これだって冷徹な現実の前で、美しき誤解と言う人もいるだろうが。)
メールでも送ろうかと思ったが、当時、日本大使館の関係者の家族が、私に耳打ちしたことが脳裏をよぎる。「ここでは、全てのやりとりが盗聴されていますよ。」

うーん、下手にメールを送って、万一迷惑をかけたらまずいしな。

(旧サイトの「活動記録」より一部抜粋して転載)

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