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Blog – お知らせ・雑感など

福島での発表と雑感

「私のはスカスカですよ。」
作品のセッティング中、ある人に「どんな作品になるの?」と尋ねられ、そう答えた。既に周囲に展示されていた他の作品が、時間と手をかけて作り込まれているものが多く、それに無意識に呼応し、冗談めかして答えた感もあった。私の設置場所のすぐそばに戸谷成雄の重々しい作品があったせいもあるかな。
しかし、実際、視覚的にはスカスカなのだ。仮設のインスタレーションという理由からだけでなく、素材の物質性に対するアプローチ(特に、素材の加工作業的な部分における手のかけ方)が、このシリーズの作品においては、あえて抑制されているのだ。

この作品の場合は、物体よりも空間性、そしてその存立のあり方が前面に出てくる。「スカスカな状態のゆらぎ感」みたいなものが重要なのである。この感覚は、長年、都市のフィルドワークをキーコンセプトにしてきて、次第に感得されてきたものと言ってもよいだろう。大袈裟に言ってしまえば、人間や文明そのもののあり方に繋がるような…。

造形論的な観点から言えば、「彫刻」ではない。
「彫刻」の基本条件の一つに「自立性」というものがある。この作品の場合は自立させていない。壁にもたれかかり、天井から吊られ、一つでも接合点が外されると崩れてしまう。カーヴィングやモデリングなど加工の有無に関わらず、これは「彫刻」には成り得ない。私は今まで、制作において立体的なものを造っても、一度も「彫刻」を目指したことはない。別に「彫刻」を忌避している訳ではないが。(ちなみに、私自身はフォーマリストではもちろんない。ただ、形式やその純粋性ついて原理的に捉える志向性は、逆説的に持っている。)
そういえば、昔、戸谷さんが今のようにメジャーな評価を受けるようになる前、新橋のガード下で、彼の熱き彫刻論を酒の肴にいろいろ語り合ったことを思い出した。彼はあの当時から真摯に「彫刻」を考えていたな。

まあ、一般的にはインスタレーションとしか呼びようがない。私流に言えばインスタラクションだ。
先の「自立させない」こととともに、空間性に身体(アクション)が介在することによって初めてたち現れてくる作品を、ここでは目指している。

もっとも、呼び方にこだわる気はあまりない。私は評論家ではないし。
初対面で美術プロパーでない人から素朴なことを尋ねられた時、便宜的に答えられる名称があると便利と思うだけだし、尋ねた方もそれでなんとなく納得する雰囲気が生まれる。その事自体に、お互い少々違和感を感じても、コミュニケーションの第一歩としては、それも時にはありだろうと思う。自分の内に向けた制作への意思においてスカスカでなければね。

(旧サイトの「活動記録」より一部抜粋して転載)

秋の気配から

一昨日の9日、倉庫から制作用の各種素材を運び出す。
写真は、その折、那須の山々を見はるかす夕焼け空を撮ったもの。雲は秋の気配を漂わせる。

空を見上げながら、何故か、5日に亡くなった緒形拳のことが頭をよぎった。津川雅彦が看取った時のことを語っていて、そのことが不思議と印象に残っていた。臨終の間際、歌舞伎役者のように虚空を睨みつけながら、静かに息を引き取ったと。

最期に何が見えていたのだろうか。何を見ようとしていたのだろうか。

私などが言うまでもないが、彼は他に替え難い存在感をかもし出せる役者だった。小学校の頃、初めてNHKの大河ドラマを見続けたのが、彼が主演した「太閤記」だった。翌年の「源義経」の弁慶役も印象深い。脚本(物語)の面白さとか、ある断片的なワンシーンなどではなく、「役者そのものの存在感」を子ども心に刻み付ける力をすでに彼は持っていたのだろう。
その後は、大学時代に映画で見た「鬼畜」「復讐するは我にあり」「北斎漫画」、さらに「楢山節考」などの凄みのある演技の記憶が強い。ここ数日、追悼番組でいくつか最近の出演ドラマを見たが、激しさを発散させることから、なるほど、内省的な渋い味を出すようになっていたのだとあらためて感じた。しかし、それもかつての凄みがあればこその穏やかさであることは間違いあるまい。

自分の制作活動に直接関係ないことをなぜここに記すかというと、緒形拳は高校の先輩なのだ。面識はない。たまたまそれだけのことなのだが、妙に気になる存在だったのだ。
そして、今夏、その高校の寮に三十数年ぶりに顔を出した折りに、彼と近い70歳前後の同窓の先輩方と語らう時間が少しあった。おおざっぱに言うと、戦前生まれで、団塊世代のもう一回り上、60年安保世代周辺の方々だ。ずいぶんと面白い話を聞くことができた。新鮮だった。そうか、この世代の方々の経験や生き方もなかなか魅力的(結構、破天荒な生き方をした人が多い)だと感じた。もちろん、近しい世代だからといって、一人一人の体験や考え方を十把一絡げにすることはできない。しかし、そのとき受けたその時代や世代の生き方の感触や印象は、緒形拳だって全く無関係だったのではなかったろうと自分勝手に推測する。

歳のとり方を思う。
彼は、内面に沸々と激しいものを抱えながら、“好好爺”然とした雰囲気を絶妙に演技できるようになっていった。(笠 智衆とは違う味だ。) 生身の彼はどうだったのだろう? 最期に見たものは激しいものだったのか? あるいは、秋の空のように澄んださわやかなものだったのか? それとも、全く別の世界だったのだろうか?

(旧サイトの「活動記録」より一部抜粋して転載)

「ホスピタリティ」のリレーションシップ

今年の4月にカメルーンで世話になった現地の友人夫婦が、家に泊まりに来た。あいにく、自分の体調がすぐれない時で、あまり良いタイミングではなかったが、少々無理をし、ふだん倉庫代わりにしている部屋を急遽片づけ、開放する。

遠来の客人に対しホスピタリティを発揮することは、自分自身が今まで世界各地でそれを受け、助けられた経験から、ある意味、お互い様というか、当然の責務という感じがある。いやいやながらでもなく、事務的でもなく、過剰なサービスでもなく、自分の生活のペースを大きく崩すことなくできたら理想的なのだろう。なかなか難しいが。

今まで様々なホームステイ先で、ずいぶん良い経験、つまり無理のない、さりげないホスピタリティを受けてきた記憶がある。嫌な思いをした経験はそれほどない。まあ、けっこう自分は恵まれていたのかもしれない。それに無頓着なところもあるからな。もちろん、お国柄、文化、パーソナリティによってそのスタイルは千差万別。狭いキッチンのテーブルの下の石の床に寝せてもらったり、ホコリっぽい階段の踊り場で寝たこともある。古城のような部屋やゴージャスな食事でもてなされたこともあったっけ。しかし、要は、その物理的な心地よさとかゴージャスさとは少し違う部分がミソなのだろう。

いざ、自分自身がそのミソを心得ていて、良いホスピタリティを発揮できるのかといえば、むろんそんな自信はない。が、今回は妻の協力もあり、彼らは5日間の滞在を終え、満足してくれ(多分?)、次の滞在先へと移っていった。

その次の滞在先とは私の友人。実は、彼らはある宗教の信者で、それを知った私は、たまたま同じ信者の知人夫妻がいたので紹介したのだ。両者から詳しく話を聞くと、信者同士はたとえ初対面でも、ウェルカムなのだそうだ。どんな民族、言葉の違いがあろうとも、必ず助け合う教えというか、ネットワークがあるらしい。互いにコンタクトさえ取れれば、「兄弟・姉妹」を喜んで受け入れる。世界中どこでも(イスラム圏でも、北朝鮮でも!)ホテルに泊まる必要などないとのこと。ホストファミリーが、鍵をかけずに出かけ、留守番を頼んでも全く心配もない。恐るべし、信仰の力。そしてネットワークの力。

私のような旅好き人間は、「へぇー、それだったら世界中で無銭旅行ができるな」などと、つい下世話なことを考えてしまう。しかし、振り返ってみれば、自分の場合だって、ほとんどのケースがアーティスト同士という、無形の信頼感や共感を元に、互いを認識し、その関係の元でホスピタリティを享受してきたことに思い至る。初対面でも、互いが互いの作品を見たり、アートに関わっているという事実が、言語・思想・宗教・民族・国家を超えて、互いにリスペクトし合える心理的土壌を形づくる。

信仰が結びつける力とは異なるが、このようなアートの緩やかに結びあう力も、ホスピタリティの温床になる。そして、次々とリレーションシップが広がっていくことが心地よい。

(旧サイトの「活動記録」より一部抜粋して転載)

私にとっての80年代

私にとっての80年代(特に前半期)は、本格的に活動を展開し始めた時期。先の「絵画・彫刻への回帰」現象そのものを否定はしない。ニューペインティング現象も席巻したし、関心がなかった訳でも無論ない。しかし、自分にとっては「形式」に収斂していくよりも、表現の現場というべきものをいかに拡張していくか心を砕いた時期だった。(その辺りの簡単な経緯はこちらを参照) それはもちろん、先行する6~70年代における、ジャンルの解体とかメディアの拡張といったムーブメントとは性質が異なるものだ。
あえて、当時の私のキーワードを対比的にあげるとすれば、「インスタレーションとパフォーマンスへの展開」となろうか。どちらもカタカナ言葉で、今、その移入~受容~変遷の過程を振り返ると、この用語を併記するのに少々こそばゆい感じはするが…。しかし、これらにはそれなりの目映さがあった。

パレルゴン以外の神田周辺の諸画廊(真木画廊/田村(新田村)画廊/駒井画廊/ときわ画廊/秋山画廊/等々‥)にも、活動のバックボーン形成においていろいろお世話になった。無論、これは私だけのことではなく、他の関係者も同様だろう。時代の検証のためには、まず、当時の記録がきちんと日の目をみる必要がある。まだそれにはほとんど手がつけられていないし、今後の大きな課題だ。例えば、私は2003年にパフォーマンス・アートを検証する企画を行ったのだが、その時、残念ながら画廊などで個人的に行われていたパフォーマンスの記録資料をほとんど集めることができなかった。公正な機関を中心として、当時の関係者の方々はもちろん、若い意欲的な研究者の積極的な介在を望みたいが、現時点ではなかなか困難だろう。

話が少し逸れた。
私自身は、仮に、歴史化される当事者の立場になったとしても、作家として、現在進行形の自分の活動を続けていくほかはないと思う。当たり前のことだが‥。その上で、自身のこと、状況体験をノスタルジーに浸ることなく、修正主義的になることもなく、できるだけきちんと語る(言語化する)ように努めたい。それが、実は容易ではないということも承知しているつもりだが、このウェブサイト上の作品記録や文献資料なども、その中のささやかな一貫としてご覧いただければ幸いだ。

作家は、一人一人異なる実感を同時代の状況に抱く。自身の実感が、他を含めた膨大な主観の束のほんの僅かな一つに過ぎないとしても、それはそれでよい。

(旧サイトの「活動記録」より一部抜粋して転載)

サルトルの言葉

先月末、横浜でアフリカ開発会議(TICAD)が開催され、アフリカ関連のニュースがメディアを賑わせた。食料危機・エネルギー問題・地球温暖化・貧困と紛争・エイズ…、多くの諸問題が互いにリンクし合いながら混在していることを改めて突きつけられた。私も、一ヶ月前、カメルーンで遅まきながらその実態のわずかな一端を実見した後なので、それなりのリアリティーを伴ってこれらの情報に接することになった。

ふと、かの有名な発言を思い出す。

「百万人の飢えた子どもにとって、いったい文学には何の意味があるのか?」

そう、サルトルの言葉だ。
ビアフラ紛争と関連した1970年前後だったろうか。定かではない。ともあれ、私はそのしばらく後の浪人時代、「文学」を「美術」に置き換え、真面目に考え込んだことがある。私だけではあるまい。多くの人が密かに辟易しながら、小骨がのどに刺さったような思いで、この問いを反すうしたことだろう。

今から振り返ると、これは近代芸術をめぐる典型的な議論だったと思う。それは、あの発言に対するもう一つの有名な(?)反論、「百万人の飢えた子どもは私の文学にとって何の意味があるのか?」を併置すると明らかになる。「芸術のための芸術か、人生のための芸術か(Art for Art’s Sake or Art for Life)」 両者は、一見立場こそ違え、その背後に19世紀来の西欧における、「芸術」を自明の前提とし、それに対し素朴な信頼感を担保しているという点において、基本的に同じだったと気づく。

その後、いつの間にやらこの手の議論はあまり目立たなくなっていった(日本では特に)。私自身は、この強引な二項対立的な問いかけは既に無効化していると考えている。特に、90年代以降、近代的な芸術(モダニズム)のあり方に地殻変動が生じてからは、その議論の土俵自体が根本的に変質してしまったと感じる。では、もうサルトルのような問いかけは全く必要なくなったのか?

そんなことはあるまい。位相を変えた同様な問いかけは必要だし、可能だろう。少なくとも私にとって、「美術家として、その生の中で、どのように美術の現場と社会的現実に関わっていくのか?」を真摯に問い続けていく必要性は常に感じている。若さゆえの性急さ、老いゆえの物わかりの良さ、無関心さゆえの引きこもりからはできるだけ距離をとっていたい。

(旧サイトの「活動記録」より一部抜粋して転載)

フローとストック

ここ一週間ほど、遅れに遅れていた「Between ECO & EGO 2006」の記録集の編集が大詰めとなり、昨日ようやく印刷所に入稿完了。わずかな時間の合間をぬいながら、だいぶ進行した老眼で目許がおぼつかなくなってきているところに、PCのモニターをじっと見続ける作業はつらい。しかし、経費節約のため自分で編集しなければならないので仕方がない。発行は3月半ばあたりの予定。

状況報告として、編集後記の文を記録集発行前ですが以下に載せます。

 会期終了後、すぐにこの記録集の編集作業に取りかかったのですが、前回同様、今回も発行までに大幅な遅れが生じてしまいました。いくつかの要因の中で、特に、パソコンのハードディスクの予期せぬクラッシュが痛手でした。

「情報」の取り扱いについて、あらためて考えさせられました。

太古の粘土板から現在のデジタルデバイスに至るまで、情報を「ストック」させるハード面は多様な進化を遂げてきましたが、現代人にとって、この「記憶の外部収蔵庫」への依存度は、かつてより増してきているように見受けられます。記録が失われることへの恐怖感は誰にもあります。先頃、CDやDVDの耐久性も、場合によってかなり短いというニュースがありました。どんなものでも壊れやすいし、はかないし、忘れられやすい。それゆえ、なんとかしたい、大切にしたいと願うものです。

眼を転じると、プロジェクト型のアートが花盛りとなった現在、表現行為や作品制作に共働して関わる現場性や、その場・その時をあぶり出す仮設性が、普通に受け入れられる時代になりました。つまり、情報の「フロー」に身を差し出す立場に軸足をおくこと。情報を受け身で「ストック」するだけが目的ではなくなってきたようです。記録より、体験という身体的記憶により大きな価値観を見いだす。情報のソフト面として次世代のアートを捉えると、これはとても可能性のあることだといえます。

情報の「フロー」と「ストック」。上記の例は、視点は異なりますが、それぞれ今を生きる私たちに様々なことを問いかけてきます。そして、昔から連綿と続く両者の相互補完的な関係とその必要性は、今後も変わらないでしょう。記録集の制作自体もアートプロジェクトの一連の経過といえますが、これも「ストック」であるとともに、新たな「フロー」を生み出す可能性を秘めたものとして捉え直すこと。そんな当たり前の事をあらためて考えながら、地味な編集作業をなんとか続けてきました。このささやかな記録集に「記憶の種」のようなものが含まれ、それが過去 – 現在 – 未来をつなぐものとして、いずれどこかに撒かれることを願いつつ…。(Between ECO & EGO 2006 記録集 編集後記より)

(旧サイトの「活動記録」より一部抜粋して転載)

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