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2011-04-01

当事者意識

震災後の目まぐるしい状況が、これまでの私たちの生活観を根底から揺さぶり続けている。

これが、これまでの国のかたちを変える強烈なきっかけになることは間違いない。変えざるを得まい。こういう事態によってその契機があっけなく生じるとは、現実的には想像できなかった。文学的・映画的想像力の中では、既視感あふれるイメージだったが‥。
平穏な日常が続くだろうという安穏とした精神、無根拠な安心感に、どこかでどっぷり浸かってしまっていたかもしれない。アーティストの想像力などとほざいていた自分も誹られよう。

しかし、一方で実際に事が起こった後では、人類史的な流れの中の一コマとして、淡々と受け入れざるを得ないような感覚さえ生じてくるのが不思議だ。
歴史の必然といってしまうと、まだ収束しない進行中の事態の中、顰蹙(ひんしゅく)を買うかもしれないが、自分もやはり、無数の出来事が連なる歴史の当事者であり、その一ページの中にしっかりと組み込まれていた(しまった)ということをあらためて再認識させられる。
やはり、繰り返されたのだ。天災、人災を問わず、中世のペスト惨禍とか大飢饉、近いところでも関東大震災、東京大空襲、原爆の惨禍などが、歴史教科書の一ページから、自分の日常の生活感覚と同じ地平に浮上してくる。いや、遅まきながら自分がようやくその地平に足が着いたということか。

「アートに何ができるか?」ということも各方面で問われ、いろいろ出てきている。私の知る限りそのほとんどがチャリティーイベントに近いものだ。もちろんそれはそれでよい。そこにアーティストとして社会参加の意義を見出すこともできるだろう。
ただ、私自身は「ちょっと待てよ?」という状態だ。正直、今はあたふた逡巡している。どう逆立ちしても、アートに義援金やボランティアなどのような現実的即効性はない。音楽(シンディー・ローパーのような)とも性質が違う。
アートは、人の可能性に長期的に(長いスパンで)関わっていくものとして、今は逆にじっくり自らを振り返る時間をとりたい。

ところで、4日から被災地(妻の実家が福島)支援に行ってくる。支援などと言えない程度かもしれない。でも、自分にできる事はささやかでもしよう。即効性のアートは期待できなくても。ただ、一方であの現場の一端でも目に焼き付けなければならない、という思いが強い。これはアーティストとしての自分本位の使命感のようなものでもある。

(旧サイトの「活動記録」より一部抜粋して転載)

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