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2016-03-25

「東京ビエンナーレ ’70再び」

慶應義塾大学アート・センター(KUAC | アート・アーカイヴ資料展XⅢ 「東京ビエンナーレ ’70再び」から。

これまで会場構成すら定かでなかったこと、会場セッティングがわずか1日しか用意されていなかったことなど、私にとって思いがけない事実を知る。一方で、当時、私はこの展覧会を実際には見ていないのに、あたかもその場を共有していたかのような感覚があって、今でも影響力をもって身体化されていることに気づいた。

思い当たるふしはある。中原(佑介)さんの評論や美術手帖の関連文献を読み、安齊(重男)さんから様々なエピソードを聞いたり写真を見せていただいたり、榎倉(康二)さんとの関わりの影響もある。’70年代の中盤から後半にかけて、その頃の画廊界隈や関係者の方々とお付き合いさせていただき始めた中で、’70年当時の濃密な空気感や問題意識が、ある種の名残りのように伝播していたのだ。さらに、旧都美館の権威的で少々鈍重とも言えるような建築の身体的記憶や、特に、上野公園に残されていたR・セラの鉄の輪を横目で見ながら、しばしばそのプロセスや行為について考えながら歩いた体験も重なっているのかもしれない。

「臨場主義」(中原佑介)であることを謳った展覧会なのに、実際には現場体験を共有していない者にも、意義あることとして記憶化されていくという、興味深い逆説。榎倉さんは、作品の記録化の重要性(今では当たり前のことだが)を良く語っていたけれど、パフォーマンスや再現性の効かないインスタレーションの発表がほとんどの私としては、自分の「いま、ここに」という制作スタンスに、あらためてこれまで通り頑張っていて良いのだと、何か追い風を送ってくれているような気もした。

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