標準原器
キログラム原器の基準が変更されるという。
近代科学を支えてきた基本7単位〈SI基本単位・「長さ(m)」「質量(kg)」「時間(s)」「電流(A)」「温度(K)」「物質量(mol)」「光度(cd)」〉のうち、物質的人工物で定められていた最期の象徴「質量」も、今後、別の物理定数(例えば原子の数から)で導きだされる値に変更されることになる。
原器という言葉も、分銅(プラチナとイリジウムの合金)という物体と結びついていた訳で、この言葉そのものもいずれ消滅して行くのかもしれない。
この言葉から連想されるのは、やはり、M・デュシャンのこと。
彼は、20世紀初頭にアインシュタインの相対性理論が発した衝撃を、表現概念の問題としていち早く真剣に受け止め、それまでの近代芸術の概念、その世界観を再編成し相対化させることを試みた。
そう、レディ・メイドによる、オリジナルとコピーの問題や再制作の問題など、いまだに折々で議論の遡上にあげられるし、例の《3つの停止原器》からは、誤差とかズレを内包することで新しいものが生み出されること、表現における偶然と必然性の関係など、私自身も気になるテーマとして様々な示唆を受け続けている。デュシャンの問題提起は、現代物理における相対性理論のように、現在の芸術を考える上でも礎になっている。
そう言えば先日、光より速いニュートリノの観測データが話題になった。相対性理論は「光速度が一番速く不変」という「絶対的基準」の元で空間も時間も、相対的に変化して(歪んで)いくという理論な訳だが、ひよっとするとこの標準が崩れてしまうことになるのかもしれない。アインシュタインもいよいよニュートンと同じように古い器に追いやられてしまう?
ある意味、標準原器のような基準があることによって我々の世界観は、「相対性」を許容できているのかもしれない。科学上の思考において、光速度のような基準がもし崩れてしまったら、相対の底が抜けてしまう。全てが相対化したら、何も頼るもの支えるべきものが失われ、もう一度物理の標準理論の再構築が迫られる。
日常生活においても多分同じだ。深刻な打撃を被り、変化を余儀なくされるだろう。あくまでもデュシャンのような芸術概念の思考実験は、日常を逆照射する人間の想像力の中のことと言えるのかもしれない。現在の世界観は、いうまでもなく20世紀初頭の激動のように再び揺らぎ始めている。ギリシャ危機しかり。あれはドルやユーロの貨幣の基準の揺らぎから来ている。貨幣価値が相対化された現実の世界は、政治・経済の仕組みを根本的に変えていくことになるだろう。
ところで芸術は?
現在の芸術は、絶対化への個人的(あるいは超越的)希求ということよりも、多元的で錯綜した世界観を示唆する役割に軸足を置いている時代に在る。デュシャンが切り開いた地平の延長上。相対化された視点がさらに複雑に入り組みながら、現実や仮想の世界の中に溶融している。見る側、体験する側にとっては、それは意味ある作用をもたらす。
一方、生み出す側に立つと、美術では90年代以降の地殻変動が一巡りし、再び停滞期に入っているように私は感じる。世界を見渡しても、20-30代の若手アーティストの作品や活動は、グローバリズム経済の中で如何に姑息に生き延びて行くか、というようなものばかり。100年前の形骸化した印象派やキュビズムのエピゴーネン達がダブる。
このような相対性の底が抜け、均一化したアマルガム(異種融合したもの)ばかりが生み出されている逆説的状況で、出現が期待される次のデュシャンは、芸術をどのように再編成していくことになるのだろう。
(旧サイトの「活動記録」より一部抜粋して転載)