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2011-10-08

カリスマの死

スティーブ・ジョブスの死報に対する、世の中の過剰ともいえる反応にはちょっと驚いた。これほど多くの人が一人の実業家の死を悼むとは…。

私は、1998年の初代ボンダイブルーiMac以降のMacユーザーなのでコアなファンではない。(あ、その前に中古のPowerbook5300も少し使ったっけ。)そもそもPC全盛の先鞭をつけた彼やビル・ゲイツ達とは同世代だが、そっちにのめり込んだこともさほどなかった。ちなみに日本式の学年ではジョブズが1学年上、ビル・ゲイツは同学年に当たる。

同時代を生きて来たとは言え、特にスティーブ・ジョブズの言動を漏れ聞くたびに、日米の文化環境の彼我の差を感じることが多かったことは事実。そう言う意味では、私なりに彼の成したこと、考え方の意味や魅力はある程度理解しているつもりではある。ソニーやホンダ神話とは異質の、一人の男が成した浮き沈みの激しい、悲喜こもごもの人生物語も。

しかし、それでも世界中があんなに悲しむことなどちょっと考えられない。彼が単なる実業家ではなかったとしても、所詮、晩年は一人の独占資本家として振る舞っただけではないのか? という観点はぬぐい切れない。当初の反体制的な動きから、最期は貧富の拡大と国家の情報管理システムの強化の側に加担してしまい、人々を自由から遠ざけてしまった企業体のボスが招いた逆説。

なぜ、多くの人々はあそこまで無垢に彼の業績を讃えられるのだろう?
思うに、彼は人々のアイデンティティ、「私だけの、人とは違う自分でありたい」というささやかな欲求を満たす、換言すれば、人々の想像力の飛翔への幻想を掻き立てるカリスマとしてのアイコンを自作自演し続け、そのスタイルを売りつけるのが巧みな産業人だったのではないか。

「技術」や「思想」のコアな部分ではなく、メディアや文化産業の交通整理の役割を全うした人。そう言う意味では、優れて時代の先端を走りきった人物ではあった。

(旧サイトの「活動記録」より一部抜粋して転載)

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