震災後の目まぐるしい状況が、これまでの私たちの生活観を根底から揺さぶり続けている。
これが、これまでの国のかたちを変える強烈なきっかけになることは間違いない。変えざるを得まい。こういう事態によってその契機があっけなく生じるとは、現実的には想像できなかった。文学的・映画的想像力の中では、既視感あふれるイメージだったが‥。
平穏な日常が続くだろうという安穏とした精神、無根拠な安心感に、どこかでどっぷり浸かってしまっていたかもしれない。アーティストの想像力などとほざいていた自分も誹られよう。
しかし、一方で実際に事が起こった後では、人類史的な流れの中の一コマとして、淡々と受け入れざるを得ないような感覚さえ生じてくるのが不思議だ。
歴史の必然といってしまうと、まだ収束しない進行中の事態の中、顰蹙(ひんしゅく)を買うかもしれないが、自分もやはり、無数の出来事が連なる歴史の当事者であり、その一ページの中にしっかりと組み込まれていた(しまった)ということをあらためて再認識させられる。
やはり、繰り返されたのだ。天災、人災を問わず、中世のペスト惨禍とか大飢饉、近いところでも関東大震災、東京大空襲、原爆の惨禍などが、歴史教科書の一ページから、自分の日常の生活感覚と同じ地平に浮上してくる。いや、遅まきながら自分がようやくその地平に足が着いたということか。
「アートに何ができるか?」ということも各方面で問われ、いろいろ出てきている。私の知る限りそのほとんどがチャリティーイベントに近いものだ。もちろんそれはそれでよい。そこにアーティストとして社会参加の意義を見出すこともできるだろう。
ただ、私自身は「ちょっと待てよ?」という状態だ。正直、今はあたふた逡巡している。どう逆立ちしても、アートに義援金やボランティアなどのような現実的即効性はない。音楽(シンディー・ローパーのような)とも性質が違う。
アートは、人の可能性に長期的に(長いスパンで)関わっていくものとして、今は逆にじっくり自らを振り返る時間をとりたい。
ところで、4日から被災地(妻の実家が福島)支援に行ってくる。支援などと言えない程度かもしれない。でも、自分にできる事はささやかでもしよう。即効性のアートは期待できなくても。ただ、一方であの現場の一端でも目に焼き付けなければならない、という思いが強い。これはアーティストとしての自分本位の使命感のようなものでもある。
(旧サイトの「活動記録」より一部抜粋して転載)
今年の猛暑は、観測始まって以来の記録になりそうだ。
頭をひねって考えなければならない懸案が七つほど重なってしまった。優先順位の違いはあれど、なかなか進展しない。若い頃はもう少しテキパキと対応できたものだが、と焦ると、余計頭の中がオーバーヒート気味に。思わず、少しでもスッキリさせねばと、炎天下にも拘らず散歩に出てしまった。
散歩コースはいくつかあるが、今は頭を一度空っぽにしたい。家から北の方の街をしばらく放浪することにした。この辺りは、古い家屋あり、小さな街工場あり、商店あり、林ありのゴチャゴチャした地域。土地の起伏も激しく、自然の地形にそって細い道が曲がりくねっている。何の変哲もない所なのだが、何故か鋭いはずの私の方向感覚がここでは麻痺しやすい。土地勘を狂わせる磁場があるのだ。こういう時(つまり我を忘れたい)には、うってつけのコースだ。
さすがに人はほとんど歩いていない。暑さでただでさえ頭がボーッとしていることも手伝い、気ままに路地を曲がったり、坂を登ったり降りたり…。そうしているうちに、案の定、頭の中のGPS(客観的位置感覚)が狂い始めた。太陽の方向がすぐわからない空の狭さも都合がいい。次々と現れる思いがけない風景で前頭葉がリセットされ、身体の他の部位から不思議な感覚が次々に立ち上がってきた…。
はるか昔読んだ、つげ義春の漫画がふいに思い浮かぶ。ゴミゴミした古い木造住宅が続いたせい? 水木しげるの漫画の一シーンも出てきた。
…と、サルディニア島でやはり炎天下の中、誰も人がいない街路をのんびり一人で歩いた記憶が突然よみがえる。キリコの絵画のようだった。あの時は雲一つない真っ青な空でくっきりと影が伸びていた。
しばらくすると、なぜかピラネージの牢獄の絵を連想。これは意外。古びた外階段が多い工場のせい? あるいは坂道で顔を上げたり、隙間なく並んだ家屋を見下ろしたりしたから? 奇妙な圧迫感があるが、気持ち悪くはない。
‥‥さらにさまよっているうちに、ふいに、かつて一時的に借家住まいをしたことがある跡地に出た。ああ、ここか。ようやく我に返る。
気づけば、大して広くない範囲を1時間半近く彷徨していた。公園のベンチでお茶を飲みながらしばらく佇む。怪しげにボーッと歩いているおじさんを自ら想像したら、ほとんど徘徊老人と変わらないじゃないか。つい、苦笑いが出た。
でも、いつの間にか頭の中はスッキリしていた。とりあえずは…。また、この後ひと踏ん張りするか。
それにしてもなぜピラネージの風景だったのだろう?
(旧サイトの「活動記録」より一部抜粋して転載)
今月初めに発覚した消えた老人問題がさらに広がりそうだ。戸籍上生存している超高齢者が各地の役所から発表されている。まだこれからも出てくるだろう。
日本もなかなかやるじゃないか。
いや、皮肉ではない。日本独特の戸籍制度がけっこう杜撰(ずさん)だったことに一種の安堵感を覚えた。そう、1億数千万人の人間を、国家(役所)が家族単位ですべて捕捉していると想像するだけで気が重くなる。そんなことは無理だ。あるいはそんな完璧さを求める必要があるのだろうか?(理論的には住基ネットなどを発展させれば表面的な捕捉は困難ではないだろうが、死亡届が出されなければ同様の事態は避けられない。)
かつて父親が他界した後、あちこちの役所や金融機関などからいろいろな書類を取り寄せ、七面倒くさい内容を調べ、記入・捺印し、それを提出するのに忙殺されたことがあった。時をおいてしばらくすると、また、この書類を提出せよという請求がくる。縦割り行政の弊害だ。結果的にこれらの手続きを終えるのに1年近く費やされた。葬儀を済ませ、はい終わりという訳にはいかない。
管理社会の元での人間は、単なる一個の肉体ではなく、過剰ともいえる社会的契約にがんじがらめに拘束された存在なのだ。それを一つ一つ解きほぐしていく手続きで、あらためて強く実感した。(そういえば、30年近く前に他界した母親宛にも、しばらく前まで某デパートからお知らせが良くきていた。こちらから連絡をするのが面倒くさかったから。これはご愛嬌だが。)
人は肉体的に死んでも社会的にはそうならない。哲学的・宗教的・心理的には無論そうだし、もっと世俗的・事務的にもそうなのだ。そう簡単には死ねない(消え去れない)のだ。
今回の問題は、各方面から様々に言われるだろう。
確かに年金などの不正受給を意図的にしていたら非難されても致し方あるまい。が、あえて乱暴に言わせてもらえば、高齢の息子・娘(この人たちも老人)が、例えば親の死を届けなかった(られなかった)こととか、白骨化した遺体とともに暮らしていたこと、いつの間にか生き別れになっていて消息不明ということなど、僅かな例とは言え、こんなこともありうるよな、なんて素朴な気持ちを抱いてもいいのではないか。
自分の死後、己の社会的関係をゼロまで解きほぐすのに親族の手を過剰に煩わせたくないと願う。とすれば、人知れずどこかで朽ち果て、戸籍上はずっと生存しているなんてこともあり得るだろう。そのくらいのことを最期にする自由(選択)が人には残されてもいいと思う。
老人になるということは、それまで組み込まれていた社会という網の目から、次第に無頓着になり否応無しに逸脱していくということだ。介護を長い間経験した身から、本当にそう思う。それを押しつけがましい正論や正義感でしっかり管理せよという声が大きくならないことを願いたい。
大袈裟かもしれないが、人間が野生の中の生き物の一つだった感覚は捨て去られるべきではない。(アートだってそうだ。)そんなある種のおおらかさ・曖昧さを許容する寛容さが日本にまだ残っていてほしい。
(旧サイトの「活動記録」より一部抜粋して転載)
最近、様々な活動記録の整理や保存の煩わしさと困難さに気をもむことが増えている。デジタル時代になっても、こういうものに関する便利さを享受することはあまりない。昨年、倉庫に保管している作品の一部を処分。今年の連休中はリフォーム準備もあり、家内に溜まった収納物の整理に着手した。
今回は自分の物もさることながら、6年前に他界した父親の遺品に手をつけた。既に、大まかに処分したのだが、保留にしていた物も多かった。特に戦時中の記録にまつわる物がそれなりにあったから。
父親は諜報関係の任務についていたこともあり、生前、その頃の事を息子に話すことはほとんどなかった。晩年、ポツポツと話しを聞いたこともあったが、没後、日誌や周辺記録を追いながら、ようやくどんな様子だったかおぼろげながら見えてきたのだった。
遺族としては、日誌などは遺しておきたいと思うが、書籍とか地図(特に配属地だった千島やソ連関係の)などは、歴史の客観的資料としての価値判断が私個人では難しい。いろいろ確認しながら迷い、迷いながら判断する。そんなことを繰り返しながら、つい当時の日本や父親の状況に思いを馳せてしまう。何しろ一世代の差とはいえ、全く異なる青春時代を生きたのだ。父親の20代は、生死の境で国家を背負って生きていた。その距離の隔たりに想像の幅も広がろうというものだ。
予想されたこととはいえ、あっという間に時間が過ぎてしまい、作業ははかどらない。結局、自分の物の整理も、「これらをいったい誰が検証するのか?」と生じた一抹の疑念とともに進まなかった。
多分、自ら整理してまとめ、不要な物は処分する事になるのだろうな。この最終的判断は直感的にするしかない。時間と気力があればだが。
(旧サイトの「活動記録」より一部抜粋して転載)
まだ寒暖の差が大きい日が断続的に続いている。腰痛の具合は一進一退。マッサージを2回ほど受けた。まだ、雨が降り冷え込むと疼き出し、ビクビクしながら立ち上がったり、歩いたりしている。リフォーム準備のための片づけもなかなか進展しない。
7-8年ほど前だったが、ひどい症状の時があった。
安静にして、仰向けで寝ていた状態からピクリとも動けない。トイレに行きたいのだが、膝を曲げることも体をひねることもできない。首も持ち上げられない。体の全身の部位、筋肉の一つ一つと対話しながら、どこをどの程度、どのような順番で動かせば問題なく立ち上げれるか試行錯誤し続けた。20分ほどかかってようやく体を反転(たったそれだけ!)させることができた。
大学時代、三木成夫先生の「生物」の授業で「個体発生は系統発生を繰り返す(ヘッケル)」という例の有名なテーゼを聞いた。それは『ヒトは胎児の時、僅か1週間ほどの間になんと5億年の進化の時間を通過するんですねぇ‥』という先生の名口調とともに記憶されている。
反転した後、四つん這いになって芋虫のようにそろそろと這っていったあの動きは、大袈裟に言えば、水生動物が上陸した時のような進化の過程をなぞったような気分だった。
重力と拮抗する二足歩行は、ヒトにとって精妙かつ極めて大変な労力を要する行為なのだった。
(旧サイトの「活動記録」より一部抜粋して転載)
昨晩、季節外れの雪が降った。東京では41年ぶりらしい。
ここのところ、日ごとに寒気と暖気が激しく入れ替わっている。外に出る時は、冬服と春服を交互に着替えなければならない。持病の腰痛が、前触れもなくシクシク出てくる。気温や気候の変化は、人の気分や行動の仕方も変えてしまう。
腰をいたわりながら、以前から繰り返し気にしている問題について振り返ってみた。
『約10-15万年前にアフリカで誕生したホモ・サピエンスは、その後5万年ほど前にアフリカを出た。その後ユーラシア大陸をどのように移動していったのか? それは何によって突き動かされたのか?』
以下は、現在の一般的な説。
気候変動により環境変化が起こり、食料確保のための狩りの範囲が変わった。ステップツンドラ地帯では温暖化と寒冷化が繰り返し起こり、ポンプのようにユーラシア大陸を北へ東へ何世代にもわたって、動物を追う小部族の人々を未踏の地へと少しずつ誘(いざな)った。
更新世末期には、地続きのベーリング海峡(ベーリンジア)を通過し、今のアメリカ大陸へ渡った部族もいた。完新世になると、気候が急速に温暖化し始める。環境の変化への対策として、それまでの狩猟生活から採集生活に切り替え、やがて一つの土地に定住して農業をはじめた。その後、灌漑設備や都市を築くようになり、気候が少しばかり悪化しても乗り切れるようになった。こうして現在われわれが文明と呼ぶものが始まった…。
その後、予測不可能な気候変動と関わりながら様々な文明が築かれ、そして滅んでいった。生物としての宿命で、増え続けた人口がその土地の環境収容能力をいずれ超える日がやってくる。そこで気候が大きく変動すると、もはや対応しきれず、多くの人は死に絶え、生き残った者は各地へ離散していく。ここには生物が「移動する」ことと「留(とど)まる」ことの葛藤が秘められている。
一方で、近年の気候学の成果は、長期にわたる地球温暖化時代となったここ1万5千年間は、多少の変動期があったにせよ、過去40万年間で最も安定した時代だったこと、別けても、20世紀は稀に見る気候に恵まれた時期だったことを教えてくれる。近代文明は大いなる幸運の元で育まれてきたのだ。それを当たり前に感じてしまっている現代人の「41年ぶりの雪」などいうとらえ方は、実に近視眼的なわけだ。
しかし、実際、われわれは大きな変化の端緒にいるのかもしれない。
数万年単位では地球は再び寒冷化する予想がある。そう、気候の変動は人類が温室効果ガスを増やそうが増やすまいが、いずれ必ず起こる。しかし、われわれの文明が存続する想像が及ぶ数百年単位では、どっちに転ぶかまだわからない。悲しいかな、われわれの多くは自分か次世代の生きる範囲のせいぜい数十年くらい先のことを考えるまでが関の山。いや10年先でも難しい。せめてこの短期間では、気候の変化による文明の壊滅的崩壊が始まらないでほしいと願う。
今日では近隣の土地には隣人が暮らしている。もう、われわれには数万年前のように他の場所に移動するという選択肢はない。略奪戦争を肯定するか、宇宙開発に本格的に乗り出さない限りは。
このような想像力と問題意識は、往々にして社会を再編成し、技術革新をうながす役目を果たすことにもなるはずだ。当面、こちらに向かっていくことを目指していくほかない。腰痛をかかえるもろい人体のような、グローバル化した後戻りできない現代文明の元で。
(旧サイトの「活動記録」より一部抜粋して転載)