慶應義塾大学アート・センター(KUAC) | アート・アーカイヴ資料展XⅢ 「東京ビエンナーレ ’70再び」から。
これまで会場構成すら定かでなかったこと、会場セッティングがわずか1日しか用意されていなかったことなど、私にとって思いがけない事実を知る。一方で、当時、私はこの展覧会を実際には見ていないのに、あたかもその場を共有していたかのような感覚があって、今でも影響力をもって身体化されていることに気づいた。
思い当たるふしはある。中原(佑介)さんの評論や美術手帖の関連文献を読み、安齊(重男)さんから様々なエピソードを聞いたり写真を見せていただいたり、榎倉(康二)さんとの関わりの影響もある。’70年代の中盤から後半にかけて、その頃の画廊界隈や関係者の方々とお付き合いさせていただき始めた中で、’70年当時の濃密な空気感や問題意識が、ある種の名残りのように伝播していたのだ。さらに、旧都美館の権威的で少々鈍重とも言えるような建築の身体的記憶や、特に、上野公園に残されていたR・セラの鉄の輪を横目で見ながら、しばしばそのプロセスや行為について考えながら歩いた体験も重なっているのかもしれない。
「臨場主義」(中原佑介)であることを謳った展覧会なのに、実際には現場体験を共有していない者にも、意義あることとして記憶化されていくという、興味深い逆説。榎倉さんは、作品の記録化の重要性(今では当たり前のことだが)を良く語っていたけれど、パフォーマンスや再現性の効かないインスタレーションの発表がほとんどの私としては、自分の「いま、ここに」という制作スタンスに、あらためてこれまで通り頑張っていて良いのだと、何か追い風を送ってくれているような気もした。
被爆70周年を考える現代美術展 RING ART P&L 2015
長崎歴史文化博物館でのインスタレーションとパフォーマンス (8/2)について
タイトル:『遍在する場/偏在する場』
“The ubiquitous area / The unevenly area”
砂利、テーブル、椅子、水、その他
展覧会自体の明快なテーマ性に付随し、長崎の土地と時間を密接に関連づけた作品。
下見の折り、この場(約40m×3.2m ×h7.4m)に敷き詰められた砂利の数を、約300万個と推計したことから発想を展開。この数は第二次世界大戦の日本人戦没者数(民間人+朝鮮・台湾人日本兵含め、一般的に約310万人とされる)とリンクする。少々不遜ながら、初めにこの場の砂利をそう見立てさせていただき、抽象的な記号の数字を具体的に実感できる場の視覚化を設定した。
もう一つ、個人的な制作上のポイントは、戦災地としての長崎で、時と場所を隔てた一介のアーティストが、世間一般に向け、これ見よがしに訴えかけるというありがちなメッセージ性に陥らない距離感の確保。なぜならこの作品(特にパフォーマンスの時)は、具体的にこの地で、今を生きている人々に向けているのだから。今の時代、このタイミングで、何故ここでこの作品を提示するのか、自分なりの根拠が必要なのだ。
インスタレーションを制作中、幸運と言うべき偶然の作用があった。下に除草シートが敷かれている厚さ5cm程の砂利の隙間から、ごく小さな若葉が芽生えているのを発見したこと。この若葉をとり囲むように白い玉砂利を撒いた。当初の全体の展示プランからは変化したが、こういうこともありだ。また、灼熱の日差しと建物が織りなす光と影の作用にも助けられた。それは、事前にある程度計算していたとはいえ、パフォーマンス時のタイミングのよい天候とともに、作品にある種のリアリティと深さを付与してくれた。
パフォーマンスでは、世界各国の第二次大戦の戦没者の数を淡々と読み上げる。しかし、それでも原爆による犠牲者の方々は、この地では特別だ。該当する範囲の砂利を除けながら移動し、さらに現在までに集計された戦没・犠牲者と核弾頭数なども壁に水で記していく。みるみるうちに壁に滲み込むように蒸発し消えていく。水が「あの状況下」で特別な意味を持っていたことは良く知られていることだ。弧を描くように壁に向けて散水し、やがて地面に流れて行く‥。
いわゆるパフォーマンスらしい行為は、傘を用いた辺りか。傘は様々な象徴性を帯びている時々用いるアイテムだが、ここでは現政権の政策に対して皮肉な意味が込められた。「核の傘」。アメリカの核の傘の元で進められる威勢の良い「積極的平和主義」の欺瞞性を暴くことは、被爆70周年を迎えるこの地で行なう意義はあると考えた。観ていただいた方々がそれを察するかどうかはわからないし、別の感覚を誘発させたかもしれない。もちろんそれはそれで良い。
(Facebook 投稿より)
作品の保管倉庫として借りている場所で、内部の掃除と整理。保全が困難になり、20年以上前のインスタレーションで用いた紙・木材等の資材の一部を廃棄・焼却。全体ではわずかしか減らなかったが、それでも大きな段ボール箱10箱以上処分。畑とはいえ、今時、焚き火ができる場所なんてめったにない。
M・ランディ「アート・ビン」よろしく、こういうプロセスをあっけらかんとパフォーマンスとすることも考えないでもないが、気分的には生生滅滅の仏教的境地に静かに浸る方がしっくり来る。物質的には焼き灰が畑の肥やしになるのが、せめてもの「価値あり」か。芋でも持って行けば、もっと良かった。
(Facebook 投稿より)
先日見た『「あしたのジョー」の時代』展(練馬区立美術館 9/21終了)から
展示された原画や年表を見ていて、不意にあることを思い出した。
あしたのジョー最終回の号が発売されたあの日。『少年マガジン』を池袋駅で買い、友人Hと一緒に列車内で並んで座り、二人でドキドキしながらむさぼり読んだ。最後のページをめくり、Hが言った。「死んじゃったのか?」。「うーん…」と唸った私は、宙づりにされた妙に気だるい気分で、車窓の流れる風景に目をやったのだった。
そつなく過去が整理されたこの手の展覧会は、時代を共有していた者にとって、当時気づかなかったことを教えてくれもするが、懐かしさだけでなく、違和感を感じることもしばしばある。面白い切り口なのだが、無理やり1970年代初頭の気分を祭り上げている感が否めなかったのが正直なところ。まあ、皆それぞれが異なる感覚で、ある時代の空気を受容しているという、当たり前のことを再確認する機会と考えればよいのだろう。
とはいえ、企画者に一つ感謝しなければならないことがあった。あの日が1973年4月20日と同定され、例のラストシーンが私の中である種のトラウマとして身体化されていたことに、あらためて気づかされたのだ。そう、この二週間後、「真っ白になった“肺”」のレントゲン写真が発覚し、体重が10キロ以上急減した私は、激しく咳き込みながら緊急入院した。重度の肺結核。あの気だるい気分は、ジョーの結末とともに、“灰“ならぬ“肺“でつながっていた訳だ。
(Facebook 投稿より)
“On the Ground – Under the Bunting – Reading the wind”
“Art Meeting 2014” (2.Aug. – 24.Aug. )
Title: “On the Ground – Under the Bunting – Reading the wind”
「ARTMEETING 2014 – 田人の森に遊ぶ」(2014.8/2~8/24 田人町 福島)での発表作品
タイトル:『地の上/旗の元/風を読む 』
児童用の机・椅子、万国旗、その他
インスタレーション: 田人第二小学校 校庭
パフォーマンス(8/2):南大平分校 校庭
この作品では、地元に住まう人々に向けて作ることを強く意識した。被災地では、他所から来たアーティストが、実は目の前にいる人々よりも、東京とか他の方ばかりに顔を向けて発信しているのではないか、と疑われかねない活動が少なからずあるようだ。福島第一原発から南西に60余Kmほどのこの地で、今回そんな作り方は避けたかった。だから、地元の人々に向けたメッセージ性が色濃い内容となった。それが実際に成功しているかどうか、まだよくわからない。もちろん、他の観客の方々を排除しているわけでもない。
私のインスタレーションがある田人二小は、貝泊小・中学校とともに、児童数の減少に伴い、今春廃校になったばかりという。その児童用の机と椅子一組を使わせていただいた。構想のきっかけは、データが確認できる昭和28年度から今年3月までの61年間で、この地区全域の小学校を卒業した児童数(私の推計でおよそ4731名)の推移だった。コンセプトの詳細について、ここでは記さない。できれば実際にご覧になり、それぞれで感じたことを大切にしていただきたい。現場に至るまでの時間、空気、暑さ、風、蝉時雨…、様々な気配とともにこの作品はあるのだから。
補注:
各所に設置されているモニタリングポスト(リアルタイム線量計)が、一部の画像に写っている。この地区は、ばらつきはあるものの平均的にこの位の数値が表示される。もっと高い所も低い所もある。このような所で人々を招く美術展を行なうことに賛否両論があることは認識しながら、企画側も参加作家も、それを前提として作品を展示している。(…と思う。)
今後、現地に見に行くつもりの方は、一応それを承知の上、各自で判断してお越しいただきたい。過疎化と汚染のダプルパンチで複雑な状況におかれている地元の方々にとっては、多くの観客に作品とともに現状をじかに来て見て欲しいと願っておられるようだ。ここにも他と同じように、日常生活を変わらずたくましく続けている方々が当たり前のようにいる。里山・奥山の自然のもとで「森に遊ぶ」という素朴なテーマと、うらはらの際どい現実を抱えたこの「Art Meeting」の真の意義はこの辺りにあると、私自身は捉えている。様々なミーティング(出会い)の機会が、この展覧会によって提供されることを期待したい。とはいえ、本当は日本はどこでも似たような状況を抱えているはずなのだが。
私のインスタレーション作品、もう一つの注意:
山間部の天気は変わりやすい。積乱雲が発生し空模様の急変化が予想される時、あるいは豪雨の前後には、仮に晴れていても、くれぐれも近寄らないようにご注意を。10mのステンレスポールが立っているので、落雷の恐れがないとはいえない。でも、ぜひ他の作品共々、注意して安全にご覧になっていただきたい。
(Facebook 投稿より)
先頃、とある理由から母方の戸籍謄本を見る機会があり、江戸晩期~明治期の家族状況の一部を伺い知ることができた。代々、母方・父方とも北信地方で暮らし、地域の中で縁戚関係があり、東京で生まれ育った私にとって幼い頃は双方の親戚が複雑にまたがり、関係がよく理解できなかったので、あらためて再整理し自己流で表にしてみた。(図はぼかしているが、一番右の紫の枠が私で左に向かって世代が遡る)
例えば、父の兄弟姉妹(明治–大正期)は11人おり、そのうち2人は早逝、2人が実家で農業、4人が養子と奉公に出され、2人が職業軍人、1人が放蕩(!)という人生のスタート。一方、母方は商家で、政治家になった人物がいたり、生糸貿易の仕事を始めたりと社会的に幅広く活動したらしい。ちなみに文化・芸術系は、この表の範囲で見当たらず。(現在ヨーロッパ中世美術史学者で著名なK氏は、4世代くらい遡ると縁続きらしいが、ほとんど関係ない。)
今の朝ドラ「花子とアン」の時代背景は、ちょうど祖父母の代にあたる様子が描かれているが、自分の家族史の行間から伺える生活と、日本の富国強兵や殖産興業の時代が重なるところがあり、特に、農家の家族関係とか伝導行商のことなどは興味深い。わずか1~2世代で社会や物事の考え方に大きな変化が生じたことにあらためて驚かざるを得ない。
ともあれ、家系というのは取り扱いが厄介なもの。私にとっては、歴史の一コマの中に身近なリアリティーを感じる材料としてだけで充分だが、先頃の皇族と出雲大社の御曹司の婚約発表はえらくアナクロで奇妙な扱われ方だった。個人的に矜持をもつのは勝手だが、ほんの数世代も遡れば、個人の血筋など様々なDNAの海の中に溶け込んで行ってしまうことが分かるはず。それを神話化された父系の一部の系統としてのみ、誇らしく扱ったり敬ったりする態度はいかがなものか。これも悪しきナショナリズムの再稼働の一端としか思えない。どうせならもうちょっと広く人類学的な視点で東アジアにおける縁戚関係まで想像を広げ、友好の証しとして使ってもらいたいものだ。