写真が幸福だった時代
20世紀を通じて独自の存在を保ってきた「写真」というメディアは、絵画や彫刻といった従来のハイ・アートとしての芸術形式の側に仲間入りしたといえるだろう。先週、東京都写真美術館でのS・サルガドと、木村伊兵衛とアンリ・カルティエ=ブレッソンの写真群を見て、こんな思いがよぎった。まあ、既に当たり前のことだが
なぜあらためてそんなことを感じたかというと、木村伊兵衛とブレッソンの珍しいコンタクトシート(ベタ焼きプリント)を見た時のこと…。
コンタクトシートは通(つう)の人が見ると興味深い。注意深く観察すると、写真家の現場の息づかいや感情の起伏の推移が感じられる。それはルネサンス絵画の技法や隠された主題を読み解きながら見るのとほとんど同じ感覚なのだ。もしくは骨董を鑑定するような態度に近い。そしてシートにマークされチョイスされた1枚のプリント写真は、単なる現実の再現や報道的客観的事実ではなく、写真家によって再構成されたリアリティーが内在されるという訳だ。
ブレッソンは有名な『決定的瞬間』で次のようにいう。
「自分自身」を発見することは、我々を形づくるとともに我々が影響を与える「外部の世界」の発見と同時に起こるのだと思われる。バランスはふたつの世界で打ち立てられなければならない。ひとつは我々の心の内部の世界、もうひとつは我々の外側に広がる世界である。その絶え間ない相互的プロセスの結果として、ふたつの世界はひとつの世界を形成する。我々が伝達すべきなのはまさにこの世界なのである。
『決定的瞬間』とは単なる客観的事実の切り取りではなく、写真家としての一人の人間の内面世界と、外界の世界が共鳴し合う瞬間のことを指すのだろう。そこで限りある生を生きる人間がシャッターを切る。単なる事実としての瞬間が、写真家の意思の力によって大きな時間の流れへ矢を射るように解き放たれる。瞬間が永遠と切り結ばれる。
なんと真っ当な芸術的営為だろう。
なるほど、サルガドの写真はバロック絵画を彷彿とさせるかのようにダイナミックな構成だし、木村伊兵衛のそれは、彼が撮った鏑木清方のような肩の力が抜けた淡白な構成なき構成だ。写真が自ずと近代芸術に仲間入りする過程を歩んだ幸福な時代とともにある紙焼きの写真…。
21世紀の最初のディケード(10年)が過ぎつつある現在、既に”情報のデジタル化”は、私たちの第二の皮膚のようにぴったり付着した。そこでは写真は、”情報の単なる一つのかたち”に過ぎなくなった。無数の人々によって携帯カメラで撮影され、あるいは街中の無人カメラが時々犯罪のニュースとともに顕わにされる。それらは、無数で匿名の眼差しが無秩序に生産する単なる一コマの静止画、断片でしかない。
人間の存在自体もそのような写真の変遷とともに変化を余儀なくされようとしている。「ふたつの世界がひとつの世界を形成する」ことは、今を生きる写真家にはひどく困難なのである。かつてのようなバランスでは。
(旧サイトの「活動記録」より一部抜粋して転載)