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2009-05-21

ウィルスの旅

新型インフルエンザがいよいよ国内発生し、報道も何かと喧(かまびす)しくなっている。これまでの機内検疫などの水際対策に、半ばあきれ半ば容認しつつ、興味を持ってその推移を見てきた。現代の日本ではほとんど初めての事態だし。
「バタフライ効果」。わずかな初期条件の変化が時間とともに拡大し、結果が大きく変わるというカオス理論で一時期はやった喩え。予測不可能な事態の推移を表現するのに相応しいこの言葉を久しぶりに思い出している。水際対策もそう言う意味では効果が全くなかったと判断するのは早計だろう。

ところで、こんな想像上の計算をしてみた。

仮に、今回のように、ヒトとトリの間で広まっていたインフルエンザウィルスが、メキシコのとある一匹の豚の体内で新型ウィルス A(H1N1)として変異を起こした瞬間があったとする。インフルエンザウィルスの大きさは、0.1マイクロメートル(1万分の1mm)程度らしい。その、遺伝子を変異させたウィルスが、ヒトへの感染を通じどのように世界中に広がっていったのか、その行程(不謹慎な言い方で言えば旅路というところか)について思いを巡らせてみる。
身長1.7mの人間は、ウィルスにとって1700万倍のサイズになる。これはヒトにとっての地球サイズよりも比率的に小さい。つまりウィルスにとってのヒトは、ヒトにとっての地球のサイズよりもはるかに大きな存在なのだ。そんな小さき存在だから、我々の必死の検疫や防疫対策などせせら笑うように世界中を巡る。マスクのフィルターなど、彼らが通り抜けるのには無いに等しい。
そして、この旅のスケールをヒトに例えると、ヒトが太陽系を一巡りするのと同じ距離感(海王星の軌道よりも7倍くらい先)となる。こんなにも軽々と移動する潜在力(旅する力?)、宿主を借りているとはいえ凄いではないか! 人類にこんな移動体(ロケット等)を作ったり利用したりする能力は勿論ない。

自分のワークショップで、時折このようなスケールの基準を変換した話題を取りあげる。
日常の生活感覚と異なる視点を獲得できることと、どれだけ日常にマーヴェラスな事柄が潜んでいるかが垣間みられるからだ。

「バタフライ効果」は、あくまでもほんの僅かな要素の組み合わせが将来において大きな影響を与えるという「(偶発的な)自然の変数」が対象にされている(のだと思う)。そこに「ヒトの意思」という変数(例えば感染したくないがための防護措置をとること)が導入される時、どのようにその後に波及されていくのかが興味深い。それは「ヒトの意思」も基本的に自然の変数の一要素に過ぎないものなのか、あるいは別のものとして設定するのか、その世界観によっても異なってくるだろう。無論、純粋に科学的な研究対象にはなりえない哲学的な興味に拠る。
そして、これはアート固有の問題にも関わってくる。そう言う意味で、この先の「ウィルスの旅」、感染の推移を私なりに追跡していきたい。(そう言えば、ウィルスとは生物の進化を誘発させてきたフィクサーであるという説もある。これも実に興味深い。なぜなら我々はウィルスの変異のおかげで存在していることになるから!)

私がもしハリウッドの映画監督かプロデューサーだったら、ウィルスを主人公にした「スタートレック」のような物語を構想するのだが。あるいは「ミクロの決死圏」のようなもの。(面白いアイデアがあるので誰か買いませんか? 売れる訳ないか。)まあ、次のワークショップのアイデアの一つとして暖めておくのが賢明か。

(旧サイトの「活動記録」より一部抜粋して転載)

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