相互監視社会
SMAPのメンバー・草○○氏が起こした事件の顛末(てんまつ)を考えるに、少々暗澹たる思いがわいてきた。本人のしたことは無論ほめられたことではないが、あれほどメディアがこぞって取りあげ大騒ぎする程のことだったのだろうか? 公然わいせつといっても深夜の誰も見ていない公園。甘いかもしれないが、駆けつけた警察官がその場で取りなし「まあまあ」と服を着せ、穏便に済ませるという普通の(と私は思うのだが…)対応になぜ至らなかったのだろう。いや、至れないのだろうか。
これは警察官個人の問題ではないだろう。明らかに今の社会のシステムの問題だ。警察官は通報を受けたら調書を取らなければならない。様々な犯罪を予防、阻止するのがシステムにおける彼らの役割だ。そして、メディアは鬼の首を取ったように過剰に報道し、ワイドショーのコメンテーターはしたり顔で正義感を振りかざす役割を果たす。
我々の社会(日本だけではない)は、「安全」とか「法令遵守」という名目の元に、それを問いかけるべき対象を峻別する能力を見失ってしまっているような気がする。そう言えば、いつの間にか街中に監視カメラが常在する事態にも慣れてしまった。システムの中で、ほとんどの市民はその相互監視社会における役割を忠実に遂行することに傾注させられてしまう。もちろん、私自身もそこからのがれることはできない。
誰からも後ろ指されることのないよう防御し行動することそのものが第一義となる。換言すれば、何か問題が生じた時、自分には問題がなかったと言い訳できるような事前の手続きに、過剰な時間とコストをかけなければならない。これは教育現場や企業社会をはじめとする様々な組織、私たちの日常生活にどっぷりと浸透してしまった。G・オーウェルの『1984』の社会を彷彿とさせられるが、今の現実の方は、小説のようにの縦(ピラミッド型)の権力構造からもたらされるのではなく、ネット社会と並走しながらグローバリゼーションやメディアという横(水平)の構造を備えている。そう、このシステムの底に誰かの悪意があるというわけではない。かえって質(たち)が悪い。
ああ、なんてつまらない社会、システムを許容してしまったのだろう。一方、自己を内省したり他者に対する想像力を広げたりする時間を失い、その能力がますます萎縮していく…。
4日のこの欄に書いた「安全・安心まちづくり条例」の件も連想しつつ、つらつらとそんな思いが頭を巡った一日。
(旧サイトの「活動記録」より一部抜粋して転載)