折り込まれる時間
先週、水戸芸術館でツェ・スーメイ展 (TSE SU-MEI ルクセンブルク出身) を見た折、『名人 – 川端康成に捧ぐ』という写真作品があった。前回のこの欄で書いた浦上玉堂の作品が、川端康成の愛蔵だったということもあり、そのタイトルを見た時、不思議な縁とタイミングを感じた。ふだん川端康成のことなど、全く気にしていなかったのだが…。
ツェ・スーメイの作品がとても魅力的で、彼女がインスピレーションを受けたという川端の『名人』を読んでみた。
囲碁の第21世本因坊秀哉名人の、昭和13年に行われた引退碁の実録小説。不敗の名人と呼ばれた秀哉が、死を賭して一手一手を打ち続ける。終局に向っていくにつれて織り成される心理的な文(あや)の描写が秀逸。囲碁に馴染みのない人にとっては、手順の説明などの表現が退屈かもしれないが、私には面白かった。
私は10代の時、肺結核で長期入院し、周りの大人たちから囲碁の手ほどきを受け、いろいろな関係書籍にもあたったことがある。40年近く過ぎた今はもうすっかりご無沙汰だが、ルールくらいは今でも覚えている。
そのシンプルな原理の中に潜む千変万化の世界は、素人目で見ても魅力的だ。純粋数学や抽象絵画の世界とも相通じる。
「三百六十有一路の中に、天地自然や人生の理法をふくむ」(同書より)とも言われる。
主に二つのことを感じた。
一つは、日本の近代以前の「芸道」としての伝統を引き継ぐ感性のあり方。
秀哉には勝負に徹しつつも、芸術作品として盤面を作っているという美意識が強烈にある。そこには特権とか狡猾さなど封建時代の遺物も半ば含まれている。西洋型の、公平を原則とし合理的な考え方で競うゲームやスポーツでは、いつの間にか置き去られた諸々のことがかろうじて遺されていた時代…。彼はその最後の時代に生きた。(現在のグローバリゼーションの奔流の中、文化的多様性と固有性ををいかに保持していくかの問題に関わるこのことについては書き出すときりがない。別の機会に譲る。)
もう一つは、時間に対する感覚。これが思いがけず刺激的だった。
この引退碁の対局者の持ち時間は、各40時間という今では考えられない長さだった。そしてこの一局の対局そのものが、名人の体調の不良もあり14回も打ち継がれ、打ち初めから終局までほぼ七ヶ月にもわたったという。
先の合理的な考え方からいえば、いかにも間延びした時間のようにしか思われない。が、そうではない別種の時間がこの間支配していたことを川端の小説は教えてくれる。細部の局面局面に様々な次元の異なる時間が折り込まれており、それを伸長するとこの時間になるのだった。
この感覚、実は作品を制作する者にとっては馴染みのあるものだ。
何もしていない時でも、作品の実現・完成につながる何かが孕まれている。あるいは、どんなに短いアクション、どんなに簡単に引かれた一本の線でも、そこに折り込まれた濃密な時間がある。
良い作品が生まれる条件の一つには、こんなことがある。
(旧サイトの「活動記録」より一部抜粋して転載)