想像力の芽生え
最新の考古学、言語学、脳科学などの研究成果で、「言語の発生」はかなり古い時代らしいということが推測できるようになった。それによると、ホモ・サピエンスが出現した約12~15万年前という従来の説よりさらに数十万年も遡るという。少なくともネアンデルタールは言葉を使っていたことは確実らしい。アウストラロピテクスの時代(約400万年前)まで遡る説もでているくらいだ。
言葉を使えるようになったのが、身振りから単語へ移行していったのか、唄のような音楽的な発声が言語化していった結果なのか、その推移を想像することはスリリングで刺激的だ。パフォーマンス(アートとしての)について考えるときにも、避けては通れない基礎演習のようなものだ。答えが出ない深遠な問いかけとして。
府中に友人の個展を見に行くついでに、ふと思い立ち、多摩動物公園へ足を伸ばした。お目当ては霊長類。サル、オランウータン、チンパンジーを久しぶりにじっくりと観察してみた。
3歳の子どものチンパンジーが、自動販売機にコインを入れ野菜ジュースの缶を取り出す。(他の大人のチンパンジーはこれを覚えないらしい。『100匹目のサル』現象とは違う状況だ。)まあ、これだけなら不思議ではない。凄いのは、その自分の行為が、周囲の仲間たちにどのように影響を及ぼすかを想像しながら、取り出すタイミングを選択しているらしいことだ。自分だけがゆっくり飲めるように周囲に誰もいない時を見計らって取り出すのだ。つまり未来を予想し、現在の行動に結びつけているということ。
もう一つ、これもやはり若いオランウータンが、日向ボッコをしながら、段ボール箱、コップ、チリ取りなどで延々と戯れている。特に、段ボール箱を広げたり閉じたりしながら、自分が籠る空間を様々な形で囲おうとしているの様子に眼を見張った。周囲からは「ホームレスみたい」などど声が上がっていたが、明らかにあれは人の「遊び」の感覚、あるいは造形(破壊)感覚につながっているように感じられた。あれがオランウータンでなくヒトだったら、ほとんどパフォーマンスの表現だ。
仮に、「言語の発生」と結びつけて、想像力の働きについて思いを巡らせてみる。
京都大霊長類研究所の有名な「アイ」と「アユム」の親子チンパンジーの例もあるが、私が思うのは、個々の断片的な能力の高さが重要ではないだろうということ。つまり、意味のある一つの単語として言葉が口に出せたかどうか、単語の意味が理解できたかどうかよりも、それらを意味ある文脈として組み合わせ、かつ、意味のリプレイス(意味を置き換え、類推する)ができたことが、想像力の働きを伸ばしたのではないか。
例えば、「白い雲」は「白い」と「雲」がふつうに自然な意味としてつながる。しかし、これが「白い気持ち」とか「悲しい雲」などといったようにリプレイスされるようになった時に、ヒトの言語的想像力がジャンプしたらしい。身の周りの時空の中の、一見、無関係なものごとを斜めに交差するように結びつけてしまうこと。それが想像力(言語に限らないが)の顕われの特質と言えるだろうか。
最近、ヒトの社会では、このような想像力が衰退してきているのではないかと思える現象が増えているように感じる。ヒトは言語を使うことによって、飛躍的に知性を中心とする能力を伸張させたが、一方で、こころと考えの乖離という避けられない深い溝、矛盾を抱え込んでしまったのも宿命として受け入れなければならない。
(旧サイトの「活動記録」より一部抜粋して転載)