不自由さが生む想像力
人間ドックに行った。
何かと身体のガタを感じるようになって久しい。一応、行政が行う無料検診は毎年受けているし、自発的にこのようなドックにも行く。過剰な検診に対して意味を認めない学者の意見や、レントゲン照射の過多でかえって病気になっているという説もあることは知っているが、私はすでに他界した両親の様子を間近に見てきた経験から、検診自体の意義を否定はしない。
まあ、それはそれとして、最近非常に眼が疲れやすくなった。
老眼がだいぶ進行してきたせいもあるが、仕事柄、他の部位よりも、これは私にとって大きな影響が生じることになる。今も、いくつかの発表(展覧会など)の構想を練りながら、断続的に企画書(らしきもの)をつくったりし、必然的にパソコンの前に座ることが多くなるのだが、眼のピント調節機能が衰えてきているのをつくづく実感する。
若い頃のようにピントが対象にすぐに合わない。コンマ何秒かの時間のズレなのだが、ピントが合うまでのタイムラグが生じる。疲れると眼鏡をどう代えても最後までピンぼけ状態のこともある。これが自分の脳の思考力や発想力に影響を及ぼす。そして、頭がキビキビと回転しなくなる。集中力が減退する。認識・認知する→意志・意識する→行動する→再び認識・認知する、というリフレインする関係の背離(はいり)が生じる。
でも、一方でこれを肯定的に捉えることもできるのではないかと思い始めてもいる。身体運動性だけについてならタイムラグはない方が良い。しかし、創作活動においては、この「微妙な間」が自分の想像力、思い入れなどに、新たな刺激を与えることも出てくるのではないかと想像する。
有名な例をあげればモネ。彼は歳をとり白内障になってから、あの睡蓮の名作の良質な作品を生み出した。いや、そうなったからこそかもしれない。マティスもしかり。車いすやベッドの上で、切り絵の素晴らしい手法を新たに展開していった。巨匠と比較するのはおこがましいが、それらは私をわずかに勇気づけてくれる。
生理的な身体性の変化と、それに伴う芸術家たちの創造性との関連性は面白いテーマだ。画家に限らず多くの事例は枚挙にいとまはあるまい。それらは、様々な作品を今までとは違った観点から捉えられるような眼差しを付与してくれることにもなるだろう。
多くの先人たちが経験してきたことを、ようやく私も同じようにわかるようになり、辿ることになったということか。
(旧サイトの「活動記録」より一部抜粋して転載)