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2008-11-02

弔意 – 山岸信郎さんのこと

かつて東京・神田にあった田村画廊・真木画廊の画廊主で、評論家でもあった山岸信郎さんが、昨日4日朝、逝去なさった。79歳。ここに、謹んでご冥福をお祈りいたします。

今、山岸さんのようなスタンスで画廊を運営する人は皆無だと思う。あれほど作家の実験精神を自由に解き放ち、鼓舞し、奔放に発表させてくれた画廊を他に私は知らない。そこにはもちろん、貸画廊という功罪共にある制度が、当時、それなりに意味を持っていた時代背景がある。しかし、山岸さんご自身の強い理念がそのスタイルの基盤だったことは間違いない。多くの作家が、若い頃あそこで発表し鍛えられながら育った。(あるいは横目で通過し、あるいは去っていった。)

私は山岸さんと様々なことを話すのが好きだった。哲学、思想、政治、そして美術について。若輩者の私にも丁寧語を混ぜたぼくとつな口調で、時に酒の場ではべらんめえ調に。ある時、自分の個展で山岸さんに「丸山さん、何か新しいことを出してきたようだなぁ‥。」と、目の前の空間をうまく言葉で捉え難いようにボソッと漏らされた。嬉しかった。あそこでは、作品が売れるとか考えるべくもなかった。

今の状況から見れば、それをイノセントな「お尻の青さ」の顕われと捉える向きもあろう。そう、いつの間にか、そんな作家の育ち方・育てられ方は淘汰されたのだ。今はもっと戦略的・効果的に、”アーティスト”自身が世に出るルートを見つけ、あるいは用意され、画廊などに限らず売り込んでいく。それが当たり前の時代になった。

いや、私は当時をノスタルジックに回想するつもりはない。

在野(地理的にも神田だし)において批判精神を失うことなく、自らの方法を貫いた山岸さんの生き方に、実は、様々な限界もまとわりついていたことは事実だろう。それは、その後90年代にかけて、この業界の推移を振り返れば、それなりの理由があったことがわかる。
美術館の購入を当て込んだ新しいスタイルの画商の台頭。一般から乖離しがちだった美術表現がサブカルチャー化し、平易な日常的な地平に降りてきたこと。保守回帰の風潮とともに商品として成立する絵画や彫刻の復活。批評家が現場から遠ざかり、総合的なオピニオンリーダーの座から降りた、または消えたこと。発表の現場が画廊や美術館からオルタナティブな場所に拡散していったこと。等々‥。
それらは相対的に山岸さんのスタイルを野暮ったく見せ、反故にしていった。換言すれば、そう感じさせるように時の流れが覆いかぶさっていった。そして彼は画廊を閉じた。(他の個人的な理由があったことは承知しているが。)

その後、時は経ち、今となる。
今後も、時代はさらに次々と巡っていくだろう。現に、リーマンブラザーズの破綻とともに起こった金融危機の影響で、アートバブルのような様相はみるみるうちに変化しつつある。今、先端でかっこいいと思われている、あるいは当たり前と思われているスタイルもいずれ変化し、ほとんどが淘汰されるだろう。
その時、山岸さんのような絶対的少数派でありながらぶれない骨太な批判精神、これが眩しく感じられるような時代が再び訪れることになっても全く不思議ではない。

(旧サイトの「活動記録」より一部抜粋して転載)

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