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2008-09-12

「ホスピタリティ」のリレーションシップ

今年の4月にカメルーンで世話になった現地の友人夫婦が、家に泊まりに来た。あいにく、自分の体調がすぐれない時で、あまり良いタイミングではなかったが、少々無理をし、ふだん倉庫代わりにしている部屋を急遽片づけ、開放する。

遠来の客人に対しホスピタリティを発揮することは、自分自身が今まで世界各地でそれを受け、助けられた経験から、ある意味、お互い様というか、当然の責務という感じがある。いやいやながらでもなく、事務的でもなく、過剰なサービスでもなく、自分の生活のペースを大きく崩すことなくできたら理想的なのだろう。なかなか難しいが。

今まで様々なホームステイ先で、ずいぶん良い経験、つまり無理のない、さりげないホスピタリティを受けてきた記憶がある。嫌な思いをした経験はそれほどない。まあ、けっこう自分は恵まれていたのかもしれない。それに無頓着なところもあるからな。もちろん、お国柄、文化、パーソナリティによってそのスタイルは千差万別。狭いキッチンのテーブルの下の石の床に寝せてもらったり、ホコリっぽい階段の踊り場で寝たこともある。古城のような部屋やゴージャスな食事でもてなされたこともあったっけ。しかし、要は、その物理的な心地よさとかゴージャスさとは少し違う部分がミソなのだろう。

いざ、自分自身がそのミソを心得ていて、良いホスピタリティを発揮できるのかといえば、むろんそんな自信はない。が、今回は妻の協力もあり、彼らは5日間の滞在を終え、満足してくれ(多分?)、次の滞在先へと移っていった。

その次の滞在先とは私の友人。実は、彼らはある宗教の信者で、それを知った私は、たまたま同じ信者の知人夫妻がいたので紹介したのだ。両者から詳しく話を聞くと、信者同士はたとえ初対面でも、ウェルカムなのだそうだ。どんな民族、言葉の違いがあろうとも、必ず助け合う教えというか、ネットワークがあるらしい。互いにコンタクトさえ取れれば、「兄弟・姉妹」を喜んで受け入れる。世界中どこでも(イスラム圏でも、北朝鮮でも!)ホテルに泊まる必要などないとのこと。ホストファミリーが、鍵をかけずに出かけ、留守番を頼んでも全く心配もない。恐るべし、信仰の力。そしてネットワークの力。

私のような旅好き人間は、「へぇー、それだったら世界中で無銭旅行ができるな」などと、つい下世話なことを考えてしまう。しかし、振り返ってみれば、自分の場合だって、ほとんどのケースがアーティスト同士という、無形の信頼感や共感を元に、互いを認識し、その関係の元でホスピタリティを享受してきたことに思い至る。初対面でも、互いが互いの作品を見たり、アートに関わっているという事実が、言語・思想・宗教・民族・国家を超えて、互いにリスペクトし合える心理的土壌を形づくる。

信仰が結びつける力とは異なるが、このようなアートの緩やかに結びあう力も、ホスピタリティの温床になる。そして、次々とリレーションシップが広がっていくことが心地よい。

(旧サイトの「活動記録」より一部抜粋して転載)

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