サルトルの言葉
先月末、横浜でアフリカ開発会議(TICAD)が開催され、アフリカ関連のニュースがメディアを賑わせた。食料危機・エネルギー問題・地球温暖化・貧困と紛争・エイズ…、多くの諸問題が互いにリンクし合いながら混在していることを改めて突きつけられた。私も、一ヶ月前、カメルーンで遅まきながらその実態のわずかな一端を実見した後なので、それなりのリアリティーを伴ってこれらの情報に接することになった。
ふと、かの有名な発言を思い出す。
「百万人の飢えた子どもにとって、いったい文学には何の意味があるのか?」
そう、サルトルの言葉だ。
ビアフラ紛争と関連した1970年前後だったろうか。定かではない。ともあれ、私はそのしばらく後の浪人時代、「文学」を「美術」に置き換え、真面目に考え込んだことがある。私だけではあるまい。多くの人が密かに辟易しながら、小骨がのどに刺さったような思いで、この問いを反すうしたことだろう。
今から振り返ると、これは近代芸術をめぐる典型的な議論だったと思う。それは、あの発言に対するもう一つの有名な(?)反論、「百万人の飢えた子どもは私の文学にとって何の意味があるのか?」を併置すると明らかになる。「芸術のための芸術か、人生のための芸術か(Art for Art’s Sake or Art for Life)」 両者は、一見立場こそ違え、その背後に19世紀来の西欧における、「芸術」を自明の前提とし、それに対し素朴な信頼感を担保しているという点において、基本的に同じだったと気づく。
その後、いつの間にやらこの手の議論はあまり目立たなくなっていった(日本では特に)。私自身は、この強引な二項対立的な問いかけは既に無効化していると考えている。特に、90年代以降、近代的な芸術(モダニズム)のあり方に地殻変動が生じてからは、その議論の土俵自体が根本的に変質してしまったと感じる。では、もうサルトルのような問いかけは全く必要なくなったのか?
そんなことはあるまい。位相を変えた同様な問いかけは必要だし、可能だろう。少なくとも私にとって、「美術家として、その生の中で、どのように美術の現場と社会的現実に関わっていくのか?」を真摯に問い続けていく必要性は常に感じている。若さゆえの性急さ、老いゆえの物わかりの良さ、無関心さゆえの引きこもりからはできるだけ距離をとっていたい。
(旧サイトの「活動記録」より一部抜粋して転載)