フローとストック
ここ一週間ほど、遅れに遅れていた「Between ECO & EGO 2006」の記録集の編集が大詰めとなり、昨日ようやく印刷所に入稿完了。わずかな時間の合間をぬいながら、だいぶ進行した老眼で目許がおぼつかなくなってきているところに、PCのモニターをじっと見続ける作業はつらい。しかし、経費節約のため自分で編集しなければならないので仕方がない。発行は3月半ばあたりの予定。
状況報告として、編集後記の文を記録集発行前ですが以下に載せます。
会期終了後、すぐにこの記録集の編集作業に取りかかったのですが、前回同様、今回も発行までに大幅な遅れが生じてしまいました。いくつかの要因の中で、特に、パソコンのハードディスクの予期せぬクラッシュが痛手でした。
「情報」の取り扱いについて、あらためて考えさせられました。
太古の粘土板から現在のデジタルデバイスに至るまで、情報を「ストック」させるハード面は多様な進化を遂げてきましたが、現代人にとって、この「記憶の外部収蔵庫」への依存度は、かつてより増してきているように見受けられます。記録が失われることへの恐怖感は誰にもあります。先頃、CDやDVDの耐久性も、場合によってかなり短いというニュースがありました。どんなものでも壊れやすいし、はかないし、忘れられやすい。それゆえ、なんとかしたい、大切にしたいと願うものです。
眼を転じると、プロジェクト型のアートが花盛りとなった現在、表現行為や作品制作に共働して関わる現場性や、その場・その時をあぶり出す仮設性が、普通に受け入れられる時代になりました。つまり、情報の「フロー」に身を差し出す立場に軸足をおくこと。情報を受け身で「ストック」するだけが目的ではなくなってきたようです。記録より、体験という身体的記憶により大きな価値観を見いだす。情報のソフト面として次世代のアートを捉えると、これはとても可能性のあることだといえます。
情報の「フロー」と「ストック」。上記の例は、視点は異なりますが、それぞれ今を生きる私たちに様々なことを問いかけてきます。そして、昔から連綿と続く両者の相互補完的な関係とその必要性は、今後も変わらないでしょう。記録集の制作自体もアートプロジェクトの一連の経過といえますが、これも「ストック」であるとともに、新たな「フロー」を生み出す可能性を秘めたものとして捉え直すこと。そんな当たり前の事をあらためて考えながら、地味な編集作業をなんとか続けてきました。このささやかな記録集に「記憶の種」のようなものが含まれ、それが過去 – 現在 – 未来をつなぐものとして、いずれどこかに撒かれることを願いつつ…。(Between ECO & EGO 2006 記録集 編集後記より)
(旧サイトの「活動記録」より一部抜粋して転載)