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2011-09-06

メディア・リテラシー

日本のマス・メディアが、戦時中の「大本営発表」を垂れ流していた頃と同じ体質、ご都合主義の隠蔽体質を未だに変えていないことは、3.11以降の様相を振り返れば明らかだ。優先的に報道されるべき情報、例えば生命の安全に関わる重要情報が、隠蔽されたり軽んじられたりされることが頻繁に起きている。一方、ネットメディアでは、様々な表に出ない情報をいち早く発信するものの、玉石混淆の情報が混在させたままノーチェックで垂れ流される。

そして、我々は視界に入る情報の真偽を判断できず、現実にどうしたら良いかの判断を出来ないことに苛立つことになる。例えば、放射能汚染状況、被曝問題などの報道一つとってもしかり。原発推進派は情報を矮小化しがちするし、反対派は怪しげな情報を肥大化しがちにとらえる。そしてメディアは視聴者(オーディエンス)が食いつきやすいよう功名に偏向・歪曲化する。

もちろん、このような傾向は、ナチスのプロパガンダ、アメリカのベトナム報道や9.11以降の愛国主義偏重報道を思い起こすまでもなく、日本だけでなく世界中のメディアが抱える、一筋縄ではいかない問題ではある。

事実はどこにあるのか? どこにどう見出すのか? そして真実をどう探るべきなのか。
自らの足で全てを調べあげることが出来ないのだから、メディアを通じた情報収集は当然だし、不可欠である。

あらためて、そして今だからこそ、オーディエンス(情報の受け手)としての構え、メディア・リテラシーについて再確認しておきたい。以下は、1992年頃にカナダ(いち早くメディア・リテラシー教育を取り入れた)で発表された、そのキー・コンセプトの抜粋。

●メディアは全て構成されている
 メディアは現実そのものを示している訳ではない。
●メディアは「現実」を構成する
 現実に起きている出来事から取捨選択されている。
●オーディエンス(情報の受け手)がメディアを解釈し、意味を作りだす
 同じ情報から全ての人間が同じ反応を示すとは限らない。
●メディアは商業的意味を持つ
 メディア自体が商業化されており、オーディエンスはそのビジネスの消費者である。
●メディアはものの考え方(イデオロギー)や価値観を伝えている
 ふだん生活している社会構造を支えている理念が影響を与えている。
●メディアは社会的、政治的意味を持つ
 メディアそのものの社会的、政治的立場の色づけが施される。
●メディアは独自の様式、芸術生、技法、決まり、約束事を持つ
 コンテンツ(内容)以外に、それぞれ独自の伝え方のスタイルがあり、その約束事の元にある。
●メディアをクリティカルに読むことは、創造性を高め多様なコミュニケーションをつくりだす
 多くの人々が力をつけ、民主的な意思決定過程を強化していくことにつながる。

今読んでも、心に期すべき構えだと感じる。
私は微力ながら、1996年頃からしばらくの間、美術教育の中でこれを応用した授業をしたことがあった。ピュリツアー賞を獲得し、その後自殺したケヴィン・カーターの撮影した画像「ハゲワシと少女」と彼の自殺までのいきさつを教材に、イコノロジー解釈の一環で、「人はどのように画像を読み取り、解釈するのか、というテーマだった。その時の教材で使用したのが、上の抜粋である。

人は感情を揺さぶる大きな出来事に出くわすと、つい、この構えを見失い冷静に判断できなくなってしまう。時に、ナショナリズム、コマーシャリズム、あるいは巧妙な思想統制などが侵入してきて、性急な結論や安堵感を求めてしまう。それもまた、近代社会、資本主義、国民国家の構造の中では逃れられない人間の宿命なのだろうが、何かと手のかかる民主主義手続きを踏みながら真っ当な市民社会を築き上げて行く過程で、一市民が身につけるべきメディアと付き合う必要不可欠の態度と、自戒を込めておきたい。

もっとも、これはあくまでもマスメディアに対して。ネット内の無数小さな情報が反乱するようになった現在においては、このような悠長な構えだけでは通用しないことは確かだが。

(旧サイトの「活動記録」より一部抜粋して転載)

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