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2010-08-25

人はいつ死ぬのか?

今月初めに発覚した消えた老人問題がさらに広がりそうだ。戸籍上生存している超高齢者が各地の役所から発表されている。まだこれからも出てくるだろう。

日本もなかなかやるじゃないか。
いや、皮肉ではない。日本独特の戸籍制度がけっこう杜撰(ずさん)だったことに一種の安堵感を覚えた。そう、1億数千万人の人間を、国家(役所)が家族単位ですべて捕捉していると想像するだけで気が重くなる。そんなことは無理だ。あるいはそんな完璧さを求める必要があるのだろうか?(理論的には住基ネットなどを発展させれば表面的な捕捉は困難ではないだろうが、死亡届が出されなければ同様の事態は避けられない。)

かつて父親が他界した後、あちこちの役所や金融機関などからいろいろな書類を取り寄せ、七面倒くさい内容を調べ、記入・捺印し、それを提出するのに忙殺されたことがあった。時をおいてしばらくすると、また、この書類を提出せよという請求がくる。縦割り行政の弊害だ。結果的にこれらの手続きを終えるのに1年近く費やされた。葬儀を済ませ、はい終わりという訳にはいかない。

管理社会の元での人間は、単なる一個の肉体ではなく、過剰ともいえる社会的契約にがんじがらめに拘束された存在なのだ。それを一つ一つ解きほぐしていく手続きで、あらためて強く実感した。(そういえば、30年近く前に他界した母親宛にも、しばらく前まで某デパートからお知らせが良くきていた。こちらから連絡をするのが面倒くさかったから。これはご愛嬌だが。)
人は肉体的に死んでも社会的にはそうならない。哲学的・宗教的・心理的には無論そうだし、もっと世俗的・事務的にもそうなのだ。そう簡単には死ねない(消え去れない)のだ。

今回の問題は、各方面から様々に言われるだろう。
確かに年金などの不正受給を意図的にしていたら非難されても致し方あるまい。が、あえて乱暴に言わせてもらえば、高齢の息子・娘(この人たちも老人)が、例えば親の死を届けなかった(られなかった)こととか、白骨化した遺体とともに暮らしていたこと、いつの間にか生き別れになっていて消息不明ということなど、僅かな例とは言え、こんなこともありうるよな、なんて素朴な気持ちを抱いてもいいのではないか。

自分の死後、己の社会的関係をゼロまで解きほぐすのに親族の手を過剰に煩わせたくないと願う。とすれば、人知れずどこかで朽ち果て、戸籍上はずっと生存しているなんてこともあり得るだろう。そのくらいのことを最期にする自由(選択)が人には残されてもいいと思う。
老人になるということは、それまで組み込まれていた社会という網の目から、次第に無頓着になり否応無しに逸脱していくということだ。介護を長い間経験した身から、本当にそう思う。それを押しつけがましい正論や正義感でしっかり管理せよという声が大きくならないことを願いたい。

大袈裟かもしれないが、人間が野生の中の生き物の一つだった感覚は捨て去られるべきではない。(アートだってそうだ。)そんなある種のおおらかさ・曖昧さを許容する寛容さが日本にまだ残っていてほしい。

(旧サイトの「活動記録」より一部抜粋して転載)

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