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2009-02-08

スピーチ

村上春樹が周囲の様々な反対の声がある中、エルサレムでの授賞式に出席した。

自らの一挙手一投足が、善かれ悪しかれ政治的意味合いを帯びてしまう可能性がある立場、しかも、その妥当性を喧(かまびす)しく騒がれてしまう立場の者にとっては、悩ましい判断を迫られたことだろう。結果として、一人の表現者としての立場を全うしつつ、誠実で賢明な態度を貫いたと私には感じられた。

その時のスピーチ(英文)が公開されている。 ⇒ エルサレム賞受賞スピーチ “Always on the side of the egg”
この内容だったら行ったこと自体の是非は、是として受け止めて良いのではないだろうか。

壁と卵のメタファーが印象的だ。
バランスと抑制の利いた自己分析と状況把握を表明しつつ、卵をパレスティナの非武装市民になぞらえ、“I will always stand on the side of the egg.” (自分はいつも卵の側にいる)。さらに続けてもう一度、“I will stand with the egg”と率直に明言した。そして、単純な二項対立(イスラエル対パレスティナ)から離れ、“Each of us is, more or less, an egg. Each of us is a unique, irreplaceable soul enclosed in a fragile shell.” (私たちひとり一人が多かれ少なかれ卵であり、唯一かけがえのない魂を抱えた壊れやすい殻に包まれた卵である)と、個人としての人間の尊厳性に向かう。
壁については、爆撃機、戦車などイスラエルの攻撃のメタファーであることを明確にしつつ、システムという、人類全体の組織が抱えるもっと大きな問題点へと敷衍していく。このシステムについては、抽象的で曖昧な言い方に留まっているが、文学者のメッセージとしてこれで充分だろう。政治的妥当性(PC=ポリティカル・コレクトネス)を厳格に主張するアクティビストには、中途半端で軟弱に感じられるかもしれないが。

彼の態度とそのメッセージ内容は、伝統的な文学者(芸術家)のスタンスを踏襲しており、決して目新しいものではない。以前、この欄でサルトルの問いかけについて書いたが、今回の村上のスピーチはそれに対する彼流の返答とも言えるだろう。
彼は現実社会と無関係に芸術至上主義を標榜している訳でもない。それなりに政治や思想の季節を密かに内面的に消化(つまり現実に対する無関心さや、PCに凝り固まった立場を止揚しつつ)した上で、今の時代にあるべきしなやかなポジションを獲得しているように思える。

そういえば、オバマ大統領の就任演説のスピーチも、政治家のものとしては決して悪くなかった。明快で、ある理想主義に裏打ちされていた。が、超大国の政治家としてのメッセージの限界も一方で感じた。(例えば、イスラムなど他宗教に対する配慮はあっても、ネイティブアメリカンの歴史にまで言及する視野はさすがに取れなかったようだ。自国の成り立ちの正当性を否定することになりかねないし。)当然のことながら、一国の指導者としての責任と義務の枠を逸脱するわけにはいかないのだろう。

村上春樹自身は、自分の態度が政治的色合いを帯びてしまうことは百も覚悟の上で、個人的メッセージと断りながら、「立ちすくむよりここに来ること、目をそらすより見つめること、沈黙することより語ること」を選び、世界に向けて発信した。そこで発せられた言説は現役政治家にはできない、一人の表現者として取りうる一つのスタンスだろう。
私はけっして彼の良い読者でもファンでもないが、今回、チャプリンの「独裁者」のシーンや、ジョン・レノンのメッセージなども、つい連想してしまった。そのような既視的なある種の懐かしさを覚えさせつつ、今の時代性を感じさせるのは、彼の文体のなせる技(マジック?)かもしれない。ひょっとしてノーベル賞でもとったら、先人たちのように世界中の人々にいずれこのメッセージが広く受け入れられ、伝説化していくことになるのだろうか。

(追記)
今回のメッセージが、イスラエル(ユダヤ)の人々にどのように受け取られたのかにも興味がわく。一神教的な、ものごとのエッジを極端に際立たせる気質の人々にとってどう感じられたのだろうか。メッセージ中の、村上の父親の仏教的な祈りのエピソードは日本人には馴染み深いものだったが、多分、この曖昧さを批判的に捉える人もかなり多いだろうと想像する。
このあたりの感受性や思考性の根源的な違いは、私自身の制作観の中でも大いに気になっている点だ。いずれ、私の個人的なイスラエル体験(1995年に一度訪問した)のことも含め、何かの折りに追跡して記してみたい。

(旧サイトの「活動記録」より一部抜粋して転載)

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